79号・中秋の姨捨を味わった小林一茶

  松尾芭蕉との縁の地として知られるさらしな・姨捨ですが、信濃国柏原(長野県上水内郡信濃町)生まれで全国に知られる俳人、小林一茶はどうだったのか。一茶の生誕は1763年。芭蕉より130年余り後の世代となりますが、芭蕉に感化されたのは確かです。  二松学舎大学(東京都千代田区)文学部教授、矢羽勝幸さんの著書「姨捨山の文学」によると、一茶は芭蕉来更から111年後の1799年を初回に計4回ほど、中秋のころの当地を訪ねました。いくつも残した一茶の句を読んでいて思うのは、記録性です。当時の様子が目に浮かびます。生活詩人と称される一茶だから切り取れたさらしな・姨捨の世界が生き生きと存在しています。
 姨岩に仏様
 長楽寺(千曲市、旧更級郡八幡村)の月見堂の前には、「俤や姨ひとりなく月の友」の句を刻んだ石碑「面影塚」がありますが、現在、林立する句碑の先駆けで明和6年(1769)、地元の俳人有志が建立しました。これを機に長楽寺を含むさらしな・姨捨は俳人が訪れたい主要スポットの一つとなり、中秋の長楽寺は一帯はとにかく人が集まる場になっていたようです。
 「姨捨山の文学」は建立から一茶の来訪期まで約50年間だけに、150㌻もさき、滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者で知られる十返舎一九ら当時の有力文筆家や俳人らの残した作品を紹介しています。南北朝時代の南朝皇子、宗良親王から万葉集を受け取り、分かりやすい読みを施したとされる成俊僧都(シリーズ6、75で紹介)の顕彰碑の建立(1812年)もその一つです。また、中秋のときは姨石の上に100人もいたというにぎわいを報告する文章も残っているそうです。
 芭蕉の作風を受け継ぐ江戸葛飾派で俳諧の修行を積み、芭蕉らの句集「冬の日」の注釈も手伝った一茶ですから、そうした世間の動きも当然知っていたと思われます。一茶はそのメッカを訪ねることができた感激を文化6年(1809)、次のように詠んでいます。
 まずは―
     けふといふけふ名月のお側かな
  「けふ」というは「きょう」、今夜の意味。名月鑑賞がさらしな・姨捨で出来た喜びが率直に伝わってきます。次は―
     名月や仏のように膝を組み
 この句の前書きには「石上」とあるので、長楽寺境内の姨石の上にいた人たちの様子だということです。あぐらをかいた人たちが月の光を浴びて仏様のように見えたのです。さらに次の句もそのときに詠んだ可能性があるということです―
    一夜さは我さらしなよさらしなよ
 説明はいらないでしょう。とにかく古来、京の都の人、全国の人のあこがれの地となった「さらしな」に一夜、ひたることができた感激がうかがえます。  一方で、「名月やどこに居っても人の邪魔」などとにぎわいを皮肉る句も詠んでいますが、これらの句を作ったとき、一茶は46歳。俳句の師匠を目指す一茶の伸びやかな感性がよく現れ、信州人らしいきまじめさ、しんしさがうかがえます。
 一茶風の確立後
 その後に訪れたのは、約15年後、師匠の地位を確立して晩年の文政6年(1823)、61歳のとき(逝去は1827年、享年65)。ただ、このときも大雨が降り、姨捨山に来ること、つまり千曲川を渡ることができず、対岸から姨捨山を眺めたと思われます。列挙します。
    十五夜のよいおしめりよよい月夜
     川留めや向かふは月の古る名所
     翌はなき月の名所を夜の雨
     名月やつい指先の名所山
    渡られぬ川や名月くはんくはんと
 対岸から姨捨山を指をくわえて見ていた一茶の姿が浮かびます。前回の訪問に比べ、句の作風が変わった感じがしませんか。この来訪の4年前には、56歳でもうけた長女さとの成長と死を感動的に描いた代表的な俳文集「おらが春」を書き上げています。その中には「我と来て遊べや親のない雀」など、後に一茶風と呼ばれ、分かりやすく親しみやすいことから生活詩人とも評される作風を確立した時期だけに、作風が姨捨詠嘆にも反映していると思います。
 千曲川と三途の川
 また、その年までにさとの前には長男、後には次男、さらに妻も病気などで亡くしていました。6月には門人たちが妻の追善句会を開いてくれました。一茶を相次いで見舞った不幸を知ると、「渡られぬ川や名月くはんくはんと」の句の「渡られぬ川」は、三途の川のように思えてきます。渡りたくても渡れないという状況は、先に死んでしまった妻子に会いにいけないその無念さも感じられます。
 一茶の句の特徴は、五感が反応しやすい言葉をふんだんに使っているところですが、この句の「くはんくはん」という擬態語はその代表的な一つだと思います。61歳といえば、もう老年でしたから、この句には晩年の芭蕉の心境も投影されているのではないでしょうか。
  「戸倉町の歴史年表」によると、確かに1700年代末から1800年代初頭、中秋のころは大雨大洪水に見舞われることがよくありました。中秋と雨はつきものでした。雨がじゃまして存分に鑑賞ができなかったので、一茶は翌1824年も月見に来ました。このときも雨が降ったのですが、なんとか千曲川を渡れたようです。雨雲が立ち込め、お月さんは現れなかったかもしれません。それも風情と感じられるようなスポットになっていたようです。
    百里来て姨捨山の雨見かな
    えいやっと来て姨捨の雨見かな
    暗き中で湧く清水
 長楽寺境内には、一茶の句碑と明示されたものはありませんが、一茶の句として広まっている(確定はできていません)「信濃ではおらが仏とおらがそば」の碑が建っています。左の写真は矢羽勝幸さんの別の著書「姨捨・いしぶみ考」で紹介されているこの句の部分です。旧更埴市(現千曲市)が同じ杏の産地である愛媛県宇和島市と姉妹都市関係を締結した際に、宇和島市が記念に建立したそうです。
 宇和島市は松尾芭蕉の母の出身地とされていますが、姉妹関係にあることを教えてくださったのは、矢羽さんの著書の出版に尽力されてきた屋代西沢書店(千曲市桜堂)社長の柳澤純さんです。
 上の写真は一茶が姨捨に初めて来た寛政11年(1799)に詠んだ句「姨捨のくらきなかより清水かな」の素材になったとされる宝ケ池です。初回に詠んだ句は少なく、旅の途上での立ち寄りのせいだったのかもしれません。宝ヶ池は姨石の裏にありますが、現在は枯れています。石の菩薩が清水の名残を示しています。この句は蕉風を強く感じさせます。宝ヶ池に湧く清水が月明かりを浴び光を放っていたのでしょうか。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。