116号・郷嶺山に艶やかさ添える木甫の句碑

  シリーズ115で「月のテーマパーク?」と紹介した郷嶺山(旧更級村、現千曲市羽尾)に、ちょっとユニークな句碑があります(写真左)。江戸幕末から明治を生きた俳人、木甫の句を刻んだもので、建てたのは梅玉という女性です。「うめたま」もしくは「ばいぎょく」と読みます。碑の高さは1㍍30㌢ほど。木甫と梅玉の関係などを知るうちにこの句碑が、なで肩の人間のように見え、艶やかさを感じるようになりました。木甫は「もっぽ」と読むことも知り、面白い音の響きもあって、親しみが一層増しました。
 遠路、新潟から
 刻まれた木甫の句は―
     更級やいまは田毎に稲の花
 碑の建立は明治29年(1896)の「中秋」と記されているので、この句は田の一枚一枚に咲いている白い稲の花、さらに収穫を前に頭(こうべ)を垂れて花のように実っている様子の両方を詠んでいるような気がします。「田毎の月」を発展させて「田毎の稲の花」という言葉を見つけたうれしさがうかがえる句です。郷嶺山周辺にも棚田が広がっていたでしょうから、光景にぴったりの句です。「齢八十」とも刻まれているので、木甫が80歳のときの建碑です。
 木甫とはどんな人なのかについて、千曲市磯部の郷土史研究家、高野六雄さんが旧戸倉町域の歴史を発掘・紹介する戸倉史談会の機関誌「とぐら」第11号に論考を寄せていらっしゃいました。それによると、木甫は江戸時代の文政元年(1818)、下伊那郡鼎村(現飯田市)に生まれ、放浪癖があったそうです。針灸医となって各地を巡る中で俳諧の道に入ります。一度は生地に戻って後進を指導しましたが、晩年再び旅に出、明治15年ごろ、新潟に落ち着き、俳諧の師匠になりました。そこで知り合った女性が梅玉でした。
新潟に関わりの深い二人がなぜ、郷嶺山に句碑を建てたのか。
 高野さんは更級村初代村長の塚田小右衛門さんが明治22年に信濃毎日新聞に投稿した「実の姨捨山」という論文も一つのきっかけになっったと、指摘しています(「実の姨捨山」についてはシリーズ89参照)。郷嶺山は明治になって小右衛門さんが、鏡台山から昇る月を愛でる観月スポットとして盛んにPRしていくので、更級にまつわる愛着の深い句の碑を建てるのなら、長楽寺周辺(千曲市八幡地区)ではなく「奈良、平安の古代から姨捨山と認められてきた冠着山のふもとにしよう」という動機が働いたとしても不思議ではありません。小右衛門さんも句碑を建てようとする人たちに物心両面からの支援をしていたので、両方の思惑が一致したわけです。
 高野さんによると、この句碑建立を記念した「月のしほり」という句集も作られており、その序文に「今は実の姨捨山に月を愛でんこととなりしは、いとど有難きことになんあると書かれているそうです。古来、句歌に詠まれてきた本当の姨捨山の麓で月を楽しむことができたのは心から喜びであるという意味です。
 小右衛門さんの支援があるとはいえ、新潟にゆかりの深い二人がわざわざ当地に来て句碑を建てるというのは、木甫の更級への思い入れがそれだけ強かったわけで、それを実現させた梅玉もなかなかの女性です。
 愛の証?
 碑の裏面には「ただならぬこの幸せや今日の月」という梅玉の句も刻まれています。高野さんによると、梅玉は50歳をすぎた明治20年ごろ、木甫と出会いました。木甫の「風流の友」だったか妻だったかはっきりしたことは分からないということですが、この句の「ただならぬこの幸せ」という言葉に想像を膨らませました。更級の月を見ることができた幸せだけでなく、木甫という俳句の師匠、男性のために大きな仕事ができた幸せも込められているような気がしました。
 シリーズ51で紹介したように、当時は郷嶺山に観月殿が作られ、そこには大島浮名とその妻、静が住んでいました。郷嶺山で一番大きい二人の句碑がありますが、木甫と梅玉はこの二人からも支援を受けたのではないかと思います。木甫の句碑は現在、大島夫妻の句碑の手前に建っています。
 木甫の句碑は梅玉との「愛の証」の句碑でもあるように思えてきました。愛というのは恋愛という意味だけではありません。俳句を愛する心、更級に恋焦がれる心などさまざまな愛着の情感が含まれます。句碑は自然石ですが、なで肩の艶やかさを感じさせる形を選んだこと自体がそうした気持ちを反映しているような気がします。
 高野さんによると、木甫は明治33年(1900)に88歳で亡くなり、梅玉が遺骨を生地の鼎村に埋葬しました。その後、梅玉がどうなったか不明ですが、「元気のいい男まさりの女丈夫」と伝えられたそうです。木甫は新潟でも愛されたらしく、新潟市の中心街に1965年、彼の「柳あり橋あり杖のとめどころ」という句を刻んだ碑が建てられました。
 高野さんの論考の中で、もうひとつ大きな収穫がありました。記念句集「月のしほり」の中に郷嶺山を描いた図が載っているというのです。右の写真です。高野さんが戸倉史談会機関誌第11号に載せていた図を複写しました。
 これによると、シリーズ115で紹介した銅版画とかなり似ています。左上に月がかかった冠着山(姨捨山)。左下からは観月殿に至る坂道があり、途中で二つに分かれています。銅版画では「倶楽部」という建物がありましたが、坂道の先にはそれらしき建築物が見えます。また、観月殿の左上にも屋根瓦の建物があり、これは銅版画の「宝蔵」に相当します。やはり、明治の郷嶺山は、さまざまな施設が備えられた「さらしな月のテーマパーク」だったのです。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。