55号・北海道開拓を支援した更級農業高生

 北海道の文学運動やアイヌ文化の紹介に取り組んだ人に、更科源蔵さんという方がいらっしゃいます。明治37年(1904)、北海道弟子屈村(現弟子屈町)のお生まれで、昭和60年、81歳で亡くなっています。ご両親が新潟県出身の開拓移民でした。更科さんは移民二世でした。この方が来し方を振り返った著書「札幌放浪記」の中に、お母さんのお話として興味深いことが書かれています。
 言い伝え
 更科さんのお母さんによると、更科家の先祖は信州更級郡の「郡司」だったそうです。郡司というのは郡の長官、最高責任者という立場です。「札幌放浪記」の中で更科さんは、「私の家のように土百姓の平民は明治以来の姓、私の内地の本家には、清和源氏から出て長野の更級郡の郡司をしていたが騒乱をのがれて越後蒲原の百姓に落ちたという系図があるという」と記しています。ただ、更科さんは「どうもそう素直に信じられない」とも書いています。
 真偽のほどは分かりませんが、現在も更科さんのご両親の出身地である新潟県旧西蒲原郡太田村(現燕市)には、更科姓の方がたくさんいらっしゃいます。越後と信濃は、戦国武将の上杉謙信と村上義清の同盟など歴史的に関係が深い間柄でもあるので、更科さんのご先祖が信州の更級と何らかの関係があっても不思議ではない気がします。
 更科さんが開拓農家の出で、戦中派でもあるということを知ったとき、先の大戦中、長野県をはじめ全国各地の農学校の生徒を中心に編成された「北海道学徒援農隊」のことが思い浮かびました。食糧増産を目的にした国策の一環で、更級郡からは現在の更級農業高校からたくさん送り出されました。
 更科さんは終戦前、東京に出て北海道で農業をやる人を探す仕事をしていました。援農高校生と更科さんの終戦前後の体験にはドラマチックなところがあるのです。
 大谷善教さんの体験 
 昭和20年(1945)の更級農業高校の援農隊には50人が選抜されました。その部隊に加わっていた学生の一人が旧更級村須坂地区(現千曲市)に生まれた大谷善教さんです。終戦まであと3カ月に迫った5月15日、出発しました。青森から青函連絡船で渡ったのですが、当時は連合国軍の襲撃から守るため護衛艦が付き添ったそうです。青森駅からは追い立てられるように船に乗り込み、周りの景色を見る余裕もありませんでした。船外はトイレの丸窓の上半分だけからしか見えないほどに押し込められていました。
 任地の旧雨竜郡雨竜村(現雨竜町)に着いたのが5月18日。農家に2人ずつ振り分けられ、大谷さんは旧更府村(現長野市)生まれの牛沢幸三郎さという方と一緒でした。牛沢さんは援農隊の隊長でした。
 仕事は厳しかったそうです。学生の援農とはいえ、朝四時半には起こされ、畑仕事、水田の手入れに出ます。朝食時の休みは30分もありません。毎年、援農学生を受け入れているだけに農家側の使い方も慣れたものでした。夏でしたので、太陽が沈む午後八時ぐらいまでは農作業でした。ただ、週に一度は映画を見ることができたそうです。月給は18円で、出発するときはこづかいを10円と決められていましたが、ズボンに100円を縫込みました。到着したときは、まだ雪が残っており、その俊は冷夏で青田刈りをした記憶があるそうです。
 甲板で仲間と歌いながら
 電気がないランプ生活。ラジオも聞けなかったので、終戦を知ったのは翌日の8月16日でした。緊急動員がかかって雨竜農協に集合、その場で引率の先生から終戦の報告を受けました。その後も援農を続けていましたが、9月20日、米軍駐留軍が北海道に23日入るので、それまでに本州に帰らないと危ないということで、21日集合。夕方、トラックに荷物を積み、体の大きな者はトラックの上で荷物をとられないように囲み、最寄りの滝川駅に向かいました。夜でしたが、駅前には解放された朝鮮の人たち(炭鉱労働者)が酒に酔ってたむろしていました。夜12時の電車に乗り込みました。
 函館につくと、船の桟橋が空襲でやられ何もありません。なんとか乗り込み青森に向かいましたが、港の中には船が沈み、飛行機は頭から突っ込んで尾翼を出しているだけ。乗った船は傾いています。それでも元気に、北海道に渡るときには出られなかった甲板に出て仲間と歌を歌いました。青森につくと、そこにも桟橋はなく、梯子で下船しました。大谷さんは函館―青森の間で本当に敗戦を実感したそうです。ズボンに縫いこんだ100円は結局つかわないまま故郷に帰りました。
 誰も立とうとせず
 一方の更科源蔵さんです。「札幌放浪記」によると、上京後、北海道の町にも爆撃が相次いだという知らせを受け、また東京でも空襲が激しくなります。更科さんは終戦の四日前の8月11日、帰郷するため汽車に乗り込みました。ものすごい睡魔に襲われて眠り込み、目を覚ますと、栃木県の那須。土手に咲いている山百合や、月見草などを見ていると、きのうまでとはまったく違った世界で、これは死後の世界ではないかと思ったそうです。あたりの人たちの顔を確かめ、「まだ生きているんだな」と妙にがっかりさせられたりもした、ということです。
 さらに汽車は何度も途中停車し、乗り継ぎを繰り返しながら、青森に到着しましたが、そのときは空襲を受けたため一面の焼け野原。連絡船に乗り込んでから終戦を知りました。
 「戦争が終わったのではない。三百年戦争の大詔が渙発されたのだ」と言う人もいましたが、それは虚しい響きでした。船が函館にドンとぶつかるように着きましたが、誰も席を立とうとしなかったそうです。故郷に戻ったからといっても、希望や期待を持てなかったからでしょうか。
 これらの記述からすると、大谷善教さんは更科さんが見てきた廃墟、荒廃の風景を一カ月ほど遅れて逆のコースで見て帰ったことになります。
 戦後の活躍
 大谷さんは戦後、更級農高を卒業すると、日本の民主的な政治や暮らしを実現させる拠点として期待された公民館活動にも関わります。更級村の公民館館報「さらしな」の編集長にもなって健筆を振るいました。また、うどんやそばの乾麺をつくる工場を自宅で創業しました。シリーズ8号で紹介した大谷善胖さんは善教さんの弟で、お二人で経営に携わっていました。銘柄の一つには「更科そば」もありました。
 更科源蔵さんも戦後、北海道を拠点に詩集や郷土史、童話、エッセー、アイヌ文化の紹介など多彩な文筆活動に取り組み、その功績に北海道文化賞やNHK放送文化賞が贈られました。
 大谷さんは高度経済成長期になると、即席ラーメンの「チャルメラ」でおなじみの明星食品の上田工場(株式会社信越明星)を設立し、東京本社の社長も勤めました。現在は歴史の勉強や農作業などの暮らしを送っています。

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