32号・能楽に盛り込まれた更級と姨捨

 古今和歌集に掲載され、当地を全国に知らしめた和歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」。この一首を主材にした謡曲があります。タイトルは「姨捨」です。

 旅人と里人

 謡曲とは能楽の脚本、シナリオでもあり、「姨捨」は今から600年前の室町時代、世阿弥の作とされます。世阿弥は能の役者かつ作者で能楽の大成者です。能楽は2001年、「人類の宝物の伝統芸能」として世界無形文化遺産となりましたが、世阿弥はその大本をつくった人と言えます。

 謡曲「姨捨」の物語は、中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るために思い立って姨捨山に急いでやってきた…と始まります。都人は姨捨山に到着して、山の頂上の様子を次のように語ります。

さてもわれ姨捨山に来てみれば、嶺平らかにして萬里の空も隔てなく千里に隅なき月の夜

  姨捨山の頂上は平らで四方の空はすべて見渡せる…冠着山に登ったことのある方は思いあたるのではないでしょうか。冠着山の頂上の様子を見事に言いあてています。東西南北を一望にでき、南には富士山が見えることがあります。右の写真は、冠着山の頂上に鎮座する冠着神社周辺の風景です。

  物語を先に進めます。都人は姨捨山の頂上で更級の里に住むという女性に出会います。里の女性も、この日の中秋の名月を味わうため里から登ってきたと言います。この里の女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねます。すると里の女性が「わが心」の和歌を持ち出しながらこう答えます。

  姨捨山の亡き跡と問わせ給ふは心得ぬ。わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見てと詠ぜし人の跡ならば、これに小高き桂の樹の陰こそ昔の姨捨の亡き跡にて候へとよ

 要約すると、老婆が捨てられたのは、桂の木の後ろ、ということになります。ここで注意したいのは、謡曲「姨捨」では,捨てられたのは「わが心」の歌を詠んだ老婆本人で、前回31号で触れた大和物語とは違っているということです。大和物語では、老女を山に捨てに行ったおいが、自分の非道を後悔して詠んだことになっています。(参考までに、桂の木は冠着山の頂上には現在、ありません。八幡地区(旧更級郡八幡村、現千曲市)の長楽寺にはあります。)

 物語はこの後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明らかにしていきます。そして、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も…。

 芭蕉と世阿弥は同郷

   当地の地理や風景を見事に盛り込んだ脚本です。世阿弥自身が当地を訪れたかどうかはわかりませんが、少なくとも当地に旅をしたことのある人間の情報をもとにつくられている、と言っていいような気がします。

 この脚本を読み始めたときに似ていると思ったのは、俳人松尾芭蕉の「更科紀行」です。同紀行の書き出しも「秋風にしきりに誘われてさらしなの里の姨捨の月を見ようと旅立った」となっており、世阿弥と芭蕉にとっては当地での「中秋の名月観賞」が特別な意味を持っていたことがうかがえるのです。

 また、たくさんある謡曲の中に「芭蕉」というものもあります。「芭蕉」とはバナナの一種で沖縄にたくさん見られる植物で、物語は、その植物の精である女性が法華経の経文では草や木のような植物も枯れた後は仏になることができることを喜び、深夜になると舞を舞うという内容です。「草木成仏」という仏教の教えがモチーフだそうです。

 しかし、芭蕉の葉っぱは大きく破れやすく、幹といっても葉が巻いているようなもので、材木にはなりません。こうした無用のものが見せる世の中の真実に感銘を受け、松尾芭蕉(幼名金作、長じて通称甚七郎)は「芭蕉」という俳号を名乗ったのではないかという説があります。

 世阿弥も松尾芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。芭蕉の生誕は1644年(正保元年)。世阿弥は1363年ごろに生を受けていますから、芭蕉にとって世阿弥は自分より約300年前の故郷の偉人です。芭蕉もおそらく謡曲に親しみ、同郷出身の世阿弥のこと、「姨捨」「芭蕉」という謡曲の内容も知っていたでしょう。松尾芭蕉は謡曲「姨捨」から更級の里、月、姨捨山についてのイメージを大きく膨らませたと言ってもいいのではないでしょうか。

 白逸の一句

「わが心」の一首が古今和歌集に盛り込まれ、その後、数々の古典に引用され文学愛好家の間では知らない人がいないほどになった「更級」と「姨捨」。江戸時代後半は松尾芭蕉の来訪で句作を通じて、普通の庶民がその言葉やイメージを楽しむようになっていきます。長楽寺にある句碑に刻まれた次の句は、そうした歴史の上に作られた代表作の一つだと思います。

    我がこころ月にミがくや山の上

 姨捨山から月を眺めていると、自分の心が磨かれていくようだ―というような意味です。作者は白逸という雅号を持つ方です。長楽寺とその周辺の句碑を調査研究した「姨捨いしぶみ考」(矢羽勝幸さん著)によると、白逸さんは弘化2年(1845)に更級郡八幡村峯(現千曲市峯地区)に生まれました。精密な八幡村の地図を作った方で、句作にも優れ「更級庵二世」を称したそうです。大正5年(1916)、72歳で亡くなりました。

 能はもともと屋外で演じられるものだったそうです。近年は薪能という屋外舞台での舞いも各地で行われるようになっています。これまでに中秋の名月のとき、冠着山の頂上で「姨捨」が演じられたことはあったのでしょうか。

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