更旅152号 「姨捨山の月」を詠んだ平安貴族の出家和歌

 シリーズ151で、更級日記の作者である菅原孝標女にとって、当地に旅をしたことのある能因法師は、更級日記という物語の構想を固める大事な情報を提供した人だった可能性があることを書きました。仮説の上に仮説を載せますが、「さらしなという地はどんな所でしたか」と菅原孝標女に尋ねられた能因法師は、喜んでというか熱意を持って答えたのではないかと想像しました。そう考える理由は、能因法師を出家させた事情がうかがえる和歌が、「さらしな・姨捨」に関係したものだからです。
 重い病の女性と交際
 その和歌は能因法師(988~1050?)が晩年に自分が作った歌を中心に編んだ歌集「能因集」の中にあります。下にそれに該当する和歌を列挙しました。
 ある所にある女、桜花の散るを見てもの思へるさまにてかくいふ
  うき身をばなぐさめつるに桜花いかせにせよとかかくは散るらん
 これを聞きて
  思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも
 女、かえし
  をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ
 また返し
  月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるらん
 研究者によると、これらの歌は能因法師が26歳のころ、恋人の女性が重い病にかかってからやりとりされた歌だそうです。同歌集には全部で約250の歌が載っているのですが、ほぼ全部が詠んだ時間順に並べられ、それぞれの歌の前には歌が作られた経緯や事情も書き添えられていることから、能因法師の人生の歩みの軌跡もうかがうことができるのです。
 一番上の「うき身をばなぐさめつるに桜花いかにせよとかかくは散るらん」は、その女性が能因法師に送った歌で、病の身を慰めるのは桜の花だが、どんなにしても散ってしまうのが悲しい―というような病身の心を打ち明けたものです。これに対して能因法師はその左隣の「思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも」という歌を作って女性に送りました。病気が治らずにふさぎこんでいる女性に、「桜の花は姨捨山の月より心を慰めるものですよね」というような慰め、お見舞いの気持ちを詠んだのです。
 しかし、それでも女性にはあまり慰めにはならなかったようです。「をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ」と歌を返します。「さらしなの姨捨山」には行ったことはないが、月を見ると、よけい悲しい気持ちになるというのです。それで能因法師はさらに一番左の歌「月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるん」を作り、女性に送りました(女性を慰めようとして作っただろうことは分かるのですが、この歌は難解で、どういう意味なのか私にはよく分かりません)。
 二人の間でやりとりされたこれらの歌では「慰め」「姨捨山の月」というフレーズがポイントになっています。これらの和歌は、当地の名を世に知らしめることになった古今和歌集収載の「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(この歌についてはシリーズ30、60など参照)を踏まえていることが濃厚にうかがえます。老人ほどに年をとっているわけではない若者の二人なのに、姨捨山をテーマにしたこの歌が、お互いの気持ちをやり取りする手段の歌として共有されているところが面白いと思います。花と言えば月、その月の名所と言えば「さらしな・姨捨」という美意識が世代を超えて当時の都人の間にあったことがうかがえます。
 研究者によると、結局、女性は亡くなり、その子の養育などをめぐって能因法師は悩み、結果的に官職に付くことをやめ、出家に踏み切ったとも考えられるそうです。
 出家の原点の地?
 能因法師が出家して和歌の道に人生を捧げることを決める際に、歌の大きなテーマになった「さらしな・姨捨」です。そのテーマに関連した質問を能因法師が受けたとすれば、熱く語らずにはいられなかったのではないでしょうか。シリーズ151で触れたように、能因法師にとって菅原孝標女は、自分の歌の師と仰いだ藤原長能の姪っ子なので、よけい親しみを感じて話したのではと想像しました。菅原孝標女との出会いは人生の晩年期と考えられるので、能因法師は「『さらしな・姨捨』は、私の出家の原点の歌枕の地でもあった」と振り返り、旅の思い出や歌枕としての「さらしな・姨捨」論を披露したのではないか…。本当のところは分りません。仮説の上に仮説を重ねています。
 今号で参考にした資料は、「能因集注釈」(川村晃生著、貴重本刊行会発行)と「摂関期和歌史の研究」(同、三弥井書店発行)、さらに「隠遁歌人の源流」(奥村晃作著、笠間書院発行)です。上の写真は姨捨山の別名がある冠着山。さらしな堂事務所の前で2009年10月23日に撮影したものです。秋の夕闇の中に三日月が浮かんでいました。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。