姨捨棚田の最高峰
昭和30年代後半は今から半世紀余り前、日本経済の高度成長が軌道に乗ったころです。都市部に人が大量に流れ、農村が崩壊していく時期ですが、耕作が放棄された田んぼは、ほとんど見当たりません。小さな田んぼを集めて大きくする土地改良が行われる前の姿です。
更級への旅新聞166号で、「田枚の月」という言葉は戦国時代には既に誕生していたと紹介しましたが、当時は棚田があったとしても斜面を下る川から水が引きやすいところ、つまり、部分的な場所だけだったと思います。しかし、米を食べたいという執念に加え、米は税金でもあったことから、水利が難しい斜面の尾根筋まで棚田に開発する人たちが現れます。そうした耕作の営みが500年近く続いた成果がこの写真に記録されています。
車はなかなか買えない時代だし、車を寄せられる道も整備されていないので、収穫した米を運び上げ下げするのは大変だったでしょう。しかし、全国の人があこがれた「さらしな・姨捨の棚田」の全盛期、最高峰がここにあります。今も残っていれば、「月の都」の歴史文化と合わせ、世界遺産の候補であってもおかしくはないと思います。
同じ内容を更級への旅新聞167号でも掲載、写真も拡大してご覧になれます。