更旅176号 極楽浄土の平等院、さらしなも?

更旅176・平等院・サムネイル

  シリーズ151号で、「更級日記の作者である菅原孝標女は、当地に実際に旅をしたことのある能因法師から「さらしな・姨捨」に関する情報を得て、日記の執筆に生かしたかもしれないという推測を書きました。では、どのような情報がもたらされ、どのように執筆に影響を及ぼしたのか。今号では菅原孝標女が晩年に見た「阿弥陀如来の夢」と「さらしな・姨捨の月」の関係を切り口に想像をたくましくしてみました。
 菅原孝標女が晩年に見た「阿弥陀如来の夢」をここで取り上げる理由は、シリーズ47で書きましたように、「更級日記」を書く大きなきっかけになったからです。仏法が廃れる末法思想が広まった時代、物語好きで現実世界と向き合うのが苦手だった菅原孝標女が晩年、死をどう迎えればいいかを真剣に悩んでいるとき、阿弥陀如来の夢を見て、本当に安心したと日記で吐露しています。
 そこまで阿弥陀如来の夢が菅原孝標女を安心させたのは、仏の姿をイメージできれば極楽浄土に行けるという考え方が広まっていたからです。そして、その考え方の象徴的な建造物が10円玉硬貨の表に描かれ、「鳳凰堂」という呼び名で知られる京都・宇治市の平等院の阿弥陀堂でした。この写真がそれで、若干の修復はなされていますが、建造時の姿が今も残っています。この阿弥陀堂は末法思想の中で作られた浄土空間を表現した最高傑作です。
 このお堂ができたのは1052年と、菅原孝標女が阿弥陀如来の夢を見る数年前です。菅原孝標女は奈良の長谷寺への参籠を何度もしていますので、その途中にある平等院を訪ね、写真の格子の向こうに鎮座する阿弥陀如来像を見ていたとしても不思議ではありません。
 では、それと「さらしな・姨捨の月」がどんな関係があるかということですが、ここから先はまったくの妄想です。当地に現れる月の姿を、この阿弥陀如来の姿と重ねていたかもしれないと想像しました。ひょっとしたら「さらしなも浄土みたいな所」と考えたかもしれないと思うのです。その訳は能因法師が当地を訪ねたのは1028年ごろの初夏のころという説があるからです。初夏は梅雨で千曲川は降った雨でかなり流路を広げていたでしょう。能因法師が歩いた道は平地ではなく山道だったかもしれません。眼下に流れる大河の千曲川、その水面を照らす太陽や月の光……それは大きな光の空間を作っていたでしょう。その輝きは浄土の世界と重なったかもしれません。
 能因法師がもし、こうした話を菅原孝標女にしていれば、「それは平等院の阿弥陀堂と同じ」と発想したかもしれません。ようやく見ることができた「阿弥陀如来の夢」を核にすえた「更級日記」の構想にもつながった可能性があります。
 もう一度、この写真の格子の向こう側に見える阿弥陀如来の顔をご覧ください。当地の鏡台山から上る月の姿とイメージが重ならないでしょうか。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。