更旅249 たくさんの人を救ってきた「慰めかねつ」和歌

 「姨捨」と聞くと、漢字の意味通りに受け取り、残酷、暗いイメージを持つ人が多いと感じます。しかし、和歌や俳句などの文芸に親しんでいる人には「月の名所」という連想が働きます。その連想のそもそもの始まりは古今和歌集に載るわがこころ慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて(よみ人しらず)の和歌といっていいと思いますが、ではこの歌が詠まれた今から約1200年前、さらしなの里は「棄老の里」「月の名所」どちらのイメージでとらえられていたのか。この問題に関しても更旅248号に続き、まず信州大学名誉教授(国文学)の滝沢貞夫さん(2016年死去)が「しなの文学夜話(上)」で展開しているお考えを自分なりに読み解きながら紹介します。滝沢さんは月の美しさが歌の核になっているとのお考え。それゆえにこの歌は月が大好きだった都人たちに口ずさまれて物語にも育ち、多くの人を救い、癒してきたといえると思います。

響き合う配列を楽しむ

 滝沢さんの説の根拠は、古今和歌集の歌の配列の仕方、つまり編集方針にあります。滝沢さんの研究によると、古今和歌集の歌は同一の言葉を使っているもの同士をとなり合わせとしたり、前の歌の問いかけに対し、もともと無関係な次の歌があたかもそれにこたえているかのように並べてみたり、逆に、わざと意味内容の上で反対となる歌を意識的に配列したりしているそうです。その結果、互いに隣り合わせた二首の歌からさまざまな連想が可能となっており、そうした連想を楽しむのが古今和歌集でもあるそうです。

「慰めかねつ」和歌の場合を具体的に見てみると、一つ前に次の歌があります。

 おそくいづる月にもあるかなあしひきの山のあなたも惜しむべらなり (よみ人しらず)

 月が東の山からなかなか出てこない、山の向こう側の人が月が去ってしまうのを悲しんで引きとめているので、いつまでもこちらに顔を出さないのだろう―という意味だそうです。そしてこの歌に対する答えのように山の向こう側の人の立場で作った歌として読めるのが、「慰めかねつ」和歌だと滝沢さんはいいます。意味は月を見上げていても心を慰めようがない、更級の地の姨捨山に照り輝く月をみていてはということですが、この歌を作った人は旅の途上のさらしなの里で月を見上げて郷愁にかられいろいろなことを思い出し、ずっと月を見続けていたいので、月が去らないように引きとめていると解釈できるそうです。

棄老の気配がない

 そして、「慰めかねつ」和歌には次の歌が続きます。

 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人のおいとなるもの (在原業平)

 よくよくの場合は別として月を賞美することはやめよう、この月こそが年月なのであり、この月が積もり積もると人は年をとるのだからという意味。天体の月を、時間をあらわす月のイメージと重ねています。美しい月だからといってずっと眺め続けると年をとっちゃうぞと月を賞美する人をからかっている感じがします。美しい月はずっと眺めていたいということを言ってもいるのが前の二つの歌なので、古今和歌集の編者(紀貫之ら)は「慰めかねつ」和歌の姨捨山の言葉で現れた「老い」のイメージをさらに展開させる歌として配列させた可能性があります。

 さてもう一度これら三首をセットで読んでみてください。月をいろいろな角度や観点で57577のリズムに盛りこみ楽しんでいる感じがしないでしょうか。それゆえ滝沢さんは、「慰めかねつ」和歌には棄老の気配がないと言い切っています。実際に「慰めかねる」和歌を作った人が古今和歌集編者と同じ思いだったかどうかはわかりませんが、少なくとも編者にとってさらしなの里は月が格別に美しい所だったことになります。

わが身と重ねた女房たち

 そして「慰めかねつ」和歌は古今和歌集に収録後、たくさんの貴族の耳目に触れるうちに独立した歌として一人歩きを始め、「姨捨山」を字義通りに受け取りそこに自分を重ねる人が出てきたと滝沢さんはいいます。それは平安時代、宮廷につかえていた女性の女房たちで、自分の境遇を不安定に感じていたので、姨捨にわが身をかさねた物語をつくるようになり、それが「姨捨」という題で、古今和歌集から約50年後に成立した大和物語に収録されたと滝沢さんはいいます。

 主人公は「信濃の国の更級というところに住む男」。幼いときに親が死んでしまったので、伯母(おば)が親のようにして付き添っていましたが、この男の妻は薄情で、伯母が年をとって腰が曲がっていたのを憎らしく思い、深い山に捨ててほしいと男に言いました。男は困ったのですが、あらがえきれず月の大変明るい夜に「寺でありがたい法要があると」うそついて伯母をは背負い、高い山の峰に置いて逃げてきました。 しかし男は悲しくて、山の上から月がこの上なく明るく出ているのをみて「我が心慰めかねつさらしな姨捨山に照る月をみて」の歌を詠みました。そして、また山へ行って伯母を連れて戻ってきました。それから、この山のことを姨捨山というようになった―としめくくられる物語です。

 ここで重要なことは、伯母は捨てられたままではなく、また迎えに来る人がいて里に帰って来ることができたという結末になっていることです。古今和歌集に「慰めかねつ」和歌が収録されて50年後には、さらしなの里はそのような救済の地としてもイメージされるようになっていたのです。

救済イメージを昇華させた能楽

 大和物語の「姨捨」の物語は、その後、今昔物語集などにのる物語の原型となったもので、古今和歌集の成立から約400年後の室町時代には、現在は世界無形文化遺産である能楽(謡曲)へと発展しました。能楽大成者の世阿弥が作った「姨捨」です。これもタイトルだけみると、悲しい暗い物語ですが、そこで繰り広げられているさらしなの里の世界は大変清らかで輝いています。

 物語は、中秋の名月がまもなくのとき、都人が更級の月を見るために思い立って姨捨山に急いでやってきた…と始まります。都人は姨捨山に到着して、山の頂上で更級の里に住むという女性に出会います。里の女性も、この日の中秋の名月を味わうため里から登ってきたと言います。物語はこの後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明らかにしていきます。そして、月の光のもとで舞います。「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」の和歌も奏でられ、月が隠れると老女も消えてしまいます。

 山に捨てられても毎年中秋には現れ、老女のかなしみが癒され魂が救済される物語です。世阿弥の流れをくむ観世流が稽古に使う謡本(うたいぼん)も「姨捨」については「単に衰えた老媼をえがくのでなく、秋の皎々たる明月の霊光を人格化したものであり、神々しいまでの清高さがある。明月のもとに白衣の老女が、少しも嘆き悲しむことなく清浄な仏説を述べるあたりに、至妙の感を催せしめる」と書き、舞が目指す世界の清らかさを指摘しています。

 つまり、不幸せな境遇の老女を救う場としてさらしなの里(姨捨山の異名を持つ冠着山)が選ばれ、そこに現れる美しい月が救済のツールとなっているのです。「慰めかねつ」和歌で都人に発見されたさらしなの里、そこに現れる月の美しさを、より深く発展的に表現したのが謡曲「姨捨」なのです。