さらしなの里友の会だより43号をアップ! 

 画像をクリックすると印刷できます。今号には「月の都」で地域PRした初代更級村長の特集があります。千曲市が2020年6月、「月の都」として日本遺産に認定されたの受け、初代村長の功績をあらためて紹介するものです。以下に記事
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 日本遺産は、地域の文化財や文化財に値するものをキーワードでつなげ、観光客を呼び込んでもらおうと文化庁が始めた事業。千曲市には国の重要文化的景観の「姨捨の棚田」がありますが、これだけだと周辺の観光資源に人がなかなか流れないので、市は「月の都」という新たなキーワードを作ったのですが、月の都による地域PRは、明治時代に更級村が行っていました。主導したのは初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんです。
 小右衛門さんは冠着山が古代から姨捨山と呼ばれて来た山であることを証明し、世間に認めさせた人です(友の会だより16号参照)。その麓の空間を「月の都」と見立て、自作の和歌に意欲的に詠み込み、「月の都」と書かれた提灯を自宅に掲げて著名人を招き、「月の都」の和歌をいくつも詠んでもらっています。そのことは「姨捨山の文学」(矢羽勝幸著)などで知ってはいたのですが、小右衛門さんのご子孫塚田せつ子さんから、小右衛門さんが作った和歌集を見せていただき、さらに多くのことが分かってきました。
 縦20㌢、横13㌢、80㌻の小ぶりの大学ノートに、さらしなにまつわる古今の歌を筆記。表紙には「古今姨捨山詩歌集」、裏には「月都古今歌集」と書かれ、冠着山の麓が月の都であることを強烈に誇る内容です。

 さらしなの里に現われる月が特別に美しいことは昔から都の人たちに知られていました。そのことが分かる一番の史料は和歌で、さらしなのことが詠みこまれた和歌を調べてきましたが、それで分かったのは、さらしなを「月の都」と見立てる和歌は明治時代に目立つようになり、同時に俳句にも詠まれるようになったということです。そのきっかけをつくったのが更級村初代村長の塚田小右衛門さんでした。
 明治22年、小右衛門さんが主導して冠着山の麓の羽尾、須坂、若宮の3村をまとめ、新しい村の名が更級村と決まるのですが、そのころに詠んだ和歌が次です。
 君が代に月の都と言ふべきはこの更級の姨捨の山
 これは信濃毎日新聞に投稿して載った歌で、明治天皇が統べる日本の「月の都」はさらしなの里という強烈な自負を感じさせます。「月都古今歌集」には、さらに次の歌があります。
 久方の月の都は信濃なる冠着山の峯にこそあれ
 昔から「月の都」と言われてきた地は、冠着山の峰にあるという、力強い宣言です。
 政治的な主張が込められた歌です。当時は歌を詠むことが文化人から政治家まで有力者の大事な教養でした。小右衛門さんは当時開湯した戸倉上山田温泉に著名人が東京などから訪れるようになっていたこともあり、多くの人を自宅に招き、さらしなが月の都だと紹介しました。「汽笛一声新橋を…」で知られる「鉄道唱歌」の作詞者大和田建樹さんもその一人で、滞在して次の歌を作りました。これも月都古今歌集に載っています。
 今よりは人に誇らんいにしへの月の都の月を見つれば 
 大和田さんは東京に戻り、知人友人に月の都としてのさらしなのことを語ったでしょう。
 小右衛門さんの熱意に意気投合した人たちにも次のような「月の都」の歌があります。
 久方の月の都を人とはば雲の上なる冠着の山  佐藤寛
 更級の月の都に来てみれば名にも勝るとなほ思ひけむ  交野時萬
 いにしえの月の都を人とはば雲井にちかき姨捨の山  大島浮名
 この舟をあがれば月の都かな  水野竜孫

 これまでの調べだと、さらしなを月の都という言葉と一緒に詠んだ最初は、平安末期から鎌倉初期を生きて「百人一首」を考案した藤原定家です。その歌は
 はるかなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里
 月都古今歌集にはこの歌も載っており、小右衛門さんは定家のこの歌に刺激を受け、さらしなの里を「月の都」というキーワードで売り出すと思いついた可能性もあります。(大谷善邦)