さらしなの里が都人の大きなあこがれだったことを裏付ける一連の和歌があります。
平安末期に生まれ、鎌倉初期に天皇を補佐する摂政だった九条良経(くじょう・よしつね)という貴族の和歌です。九条良経(以下良経)は、新古今和歌集の編纂に大きな仕事をした人です。良経については更級への旅163号で「雪白き四方の山辺をけさ見れば春のみ吉野秋の更級」という、さらしなを奈良の吉野と同列に並べ、日本の「白の美意識」を歌にした人として紹介しましたが、良経にはこの歌のほかにも、さらしなの里への強いあこがれをうかがわせる和歌がいくつもあるのです。良経の歌集「秋篠月清集」から引用します。(歌の解釈は和歌文学大系60「秋篠月清集/明恵上人歌集」(谷知子、平野多恵著)を参考にしました)
まずこの歌です。
わがやどは姨捨山に住みかへつ都のあとを月やもるらむ
住むところを姨捨山のあるさらしなの里に変えた、わたしがいなくなった都の家には月の光が差し込んで、家を守ってくれているだろうか。「もる」は「(光が)漏れる」と「守る」の二つの意味を持つ掛詞。良経は実際にさらしなに移り住んだわけではありませんが、イメージ、想像の世界でさらしなの里に行っています。
次はこれ。
更級の月やはわれをさそひこし誰がすることぞ宿のあはれは
ちょっと難しいです。谷知子さんと平野多恵さんの解釈によると、更級の月がわたしを誘ったのだろうか、いや、そうではない、家で味わうこの哀感は誰のせいだろうか。この歌も遠く離れた信濃の国のさらしなの里の月に思いをはせています。
3つ目は、
更級を心のうちに尋ぬれば都の月もあはれ添ひけり
さらしなの月を心の中で想像してみると、都で見る月よりいっそう趣が深いものになるものだという意味です。これも行くことがかなわない更級の月にあこがれたものです。
4つ目。
ふるさとはわれまつ風をあるじにて月に宿かる更科の山
ふるさとはわたしの帰りをまつ風が家の主人となっているが、わたしはさらしなの里の姨捨山にてる月に身を宿している。松と待つという二つのイメージを組み合わせた「まつ」という掛詞があり、複雑な歌ですが、これにもさらしなの月へのあこがれがあります。
5つ目。
山深み都を雲のよそに見て誰ながむらむ更級の月
雲のはるか向こうにある都を思いながら、さらしなの月を眺めることができている人をうらやむ歌です。
良経が詠んださらしなに関係している歌は、調べられた限りで「秋篠月清集」に10首あり、以上の歌は同歌集に載る順番に並べました。最後の10首目に、更級への旅163号で紹介した「雪白き四方の山辺をけさ見れば春のみ吉野秋の更級」が登場します。天皇家の聖地でもある奈良の吉野と信濃のさらしなをセットにして詠むという大変大胆な試みは、以上のようなさらしなへの大きなあこがれがあり、それがこの歌のベースにあると思います。