長野県軽井沢町の追分地区に、さらしなの月と奈良・吉野山の桜の花をセットにして楽しむ歌の石碑があります。歌は「さらしなは右みよしのは左にて月と花とを追分の宿」。古来、天皇家とゆかりが深く、現在は世界文化遺産になっている吉野山とさらしなの里を並び称す江戸時代の歌です。分去れ(わかされ)の道しるべと呼ばれる道標となっており、更級への旅17号と58号で紹介しました。その時点ではこの歌がどのような経緯で誰が作ったかなどは調べなかったので、追分宿郷土館を訪ね、学芸員の伊藤京子さんにお聞きしました。この歌は「追分節」の一つとして歌われていたものであることが分かりました。同郷土館発行の追分節に関する小冊子の中で紹介されている約30の歌詞の中に、確かにありました。
追分は江戸時代、江戸から来た人にとって、都につながる中山道と日本海に至る北国街道との分岐点で、ここに「さらしなは右みよしのは左にて…」の歌が彫られた分去れの道しるべが、子抱き地蔵の台座として存在しています。北には浅間山が雄大に望めます。当時の旅の乗り物である馬を引く馬子(まご)たちが馬を導きながら歌ったのが「追分節」です。追分は宿場でもあったので、この馬子唄とは別に、歌詞に三味線の音色をのせて歌う座敷唄としての追分節もあったそうです。
追分節について研究した小宮山利三さんの著書「軽井沢三宿の生んだ追分節考」によると、分去れの道しるべに刻まれた「さらしなは右みよしのは左にて…」の歌は、座敷唄として歌われた可能性があるということです。
追分節保存会の方々による追分節の披露の様子がユーチューブにアップされていました。https://www.youtube.com/watch?v=0aqCBTfmf_A&t=172s
「さらしなは右…」は歌われていませんが、馬子唄の調べがどんなものかよく分かります。なんとも伸びやかで哀感と同時に明るさがあり、おおらかな姿の浅間山を仰ぎ見ながら、この調べを耳にしたらさぞ気持ちいいだろうなあと思いました。
これらのことが新たに分かって、追分宿郷土館の伊藤さんにあらためてお話しを聞いたところ、分去れの道しるべの「さらしなは右…」の歌は、保存会の方が伝承講座で歌っているのを何度か聞いたことがあるとのことでした。音源は残っていないということです。新型コロナの影響で、現在は休止となっている伝承講座を状況が改善すればまた再開したいということだったので、それではそのときに「さらしな右…」を追分節で歌ってもらえないかとお願いしました。
もし実現したら、わたしも歌い方を教えてもらいたいと思っています。
なお、追分宿郷土館では、追分節保存会が作った追分節のCD(600円)も販売しており、購入しました。馬子唄と座敷唄の両方が録音され、80近くの追分節の歌詞を紹介する紙の資料も入っていました。
ところで「さらしなは右みよしのは左にて」の歌を、いつだれが作り、どのような経緯で道標になって置かれるようになったのかですが、これについてははっきりした資料がなく、確実なことは分かりません。ただ、追分宿郷土館で12月27日まで開催の企画展「浅間根腰の三宿―軽井沢宿・沓掛宿・追分宿」の展示を見て、歌が作られた時期に関して分かったことがあります。
中山道の宿場沿いの商いの店の広告をまとめた江戸時代の「諸国道中商人鑑 中山道善光寺之部全」の本も展示され、その本は追分宿の広告も載せているのですが、旅籠でもあった「問屋土屋庄左衛門」の広告の左側に、この歌が引用されています。このことから「さらしなは右みよしのは左にて月を花とを追分の宿」の歌は、遅くともこの本が出版された1827年より前に作られていたことになります。
なお、追分の「さらしなは右みよしのは左にて…」の歌に刺激を受け、2015年6月、吉野山の金峯山寺元宗務総長をお招きして、さらしなの里のシンボルである冠着山(かむりきやま、別名姨捨山)の登山を行いました。下をクリックすると、そのときの様子がごらんになれます。