更旅265号 国宝になった「更級日記」 作者は紫式部と同じ宮中の物語作家

 平安時代に書かれた「更級日記」が2023年6月27日、国宝に指定されました。正確には、鎌倉時代の歌人で小倉百人一首の考案者、藤原定家が書き写した和綴じ本が国宝になったのですが、更級という地名、言葉が「国の宝」になったと言ってもいいと思います。
 1行も「さらしなの里」のことが書いてないのに、なぜ当地の「更級」がタイトルになっているのか気になり「更級日記」を読み始めて25年。今、この作品は時代や社会と女性の生きざまという観点での読み解きが深まっています。

 その例が、2019年に放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア 物語に魅せられて 更級日記・平安少女」という番組です。日記作者の菅原孝標の娘の心の中に入りこんで、なぜ自分史の先駆けといわれる日記を書いたのを明らかにしていく番組でしたが、女性の活躍や社会的立場の向上といった現代が抱える問題のまなざしを注ぎながら、菅原孝標の娘の生きざまを紹介していました。「更級日記」研究で評価される研究者にも女性が登場していることも関係していると思います。文芸作品は時代が変わると、読まれ方も時代の精神を反映したものになります。

 そうした関心から、「源氏物語」作者紫式部と時の最高権力者藤原道長の2人を主人公にした、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」を興味深く見ました。道長の子の頼通(平等院鳳凰堂造立)は道長の後を継いだ後、菅原孝標の娘を物語作家として宮中に招いた可能性があり、紫式部と道長が編み出した物語による宮中統治の方法は次の世代にも受け継がれ、菅原孝標の娘と頼通の関係となって展開したと考えられるからです。
 その関係は紫式部・藤原道長の時代より後になるので描かれませんでしたが、最終回に、少女時代の菅原孝標の娘が登場したのはうれしかったです。「更級日記」で菅原孝標の娘は、少女のころのに源氏物語を読みふけり暗唱するまでになっていたことを書いており、源氏物語が当時の都人にどのように受け止められていたかを記す貴重な文献です。また、源氏物語にひたったことが菅原孝標の娘に「更級日記」を書かせることにながりました。源氏物語が後世に与えた重要な影響として、こうした「更級日記」を綴った菅原孝標の娘を登場させることがドラマを締めくくるのにふさわしいと番組側が考えたのだと思います。(頼通と菅原孝標の娘の関係について詳しくは更級153号
 最終回では、ドラマの主人公まひろ(紫式部)と菅原孝標の娘が出会っている様子が描かれました。市中で菅原孝標の娘が落とした源氏物語の本をまひろが拾ったことがきっかけで、菅原孝標の娘が物語をまひろに読んで聞かせる少女として登場しました。まひろは自分が作者であることは明らかにせず、登場人物や物語について菅原孝標の娘が熱心に披露する解釈を楽しそうに聞いていました。
 菅原孝標の娘は源氏物語のオタク的な愛読者として描かれ、彼女の口から源氏物語が千年を越えて詠み継がれることになった理由も説明される仕掛けになっていました。理由は「男の欲望の実体と女性が自分を重ねられるさまざまな女性が描かれているから」というもので、最後に菅原孝標の娘が語った「光る君(光源氏)とは、女を照らす出す光りだったのです」という言葉に、千年後の現代に大河ドラマ化した理由も含まれている気がしました。

 「光る君へ」の放送が始まって間もなくの2024年3月26日には、皇居東御苑の美術館「皇居三の丸尚蔵館」で展示されていた国宝「更級日記」を見に行ってきました。藤原定家が書写した「更級日記」は天皇家の宝物として受け継がれてきたのですが(更旅45号)、皇居三の丸尚蔵館の新築を記念して展示が決まり、めったにないチャンスなので、実物を見学するバスツアーが開催されました。
 栞の故郷推進委員会(馬場條会長)の主催で、参加者は「更級日記」題名の里、千曲市更級地区をはじめ長野市や佐久市からも含め95人。入館には予約が必要で30分刻みでそれぞれ60人の制限があっため、11時半と12時の2つのグループに分けて予約しました。しかしこの日はまさかの本降りの雨で到着が遅れ、結果的に95人全員が一度に入館することになり、約1時間、「更級人」が三の丸尚蔵館を〝占拠〟しました。

 国宝「更級日記」はガラスケースの中にページを開き展示されていました。源氏物語を全文読みたくてしかたがなかった菅原孝標女が家の近くのお姫さまから譲り受けたときのことが書いてあるところで、これは「光る君へ」が放送中であることも意識した展示でした。
 わたしは表紙に書かれている題名の「更級日記」の文字を見たかったのですが、実物は一つしかないので、それはかないません。実物を写真撮影して10%縮小印刷した影印本(笠間書陰) を持って行って、表紙をケースの外で見てもらったり、本を手にしてもらったりしました。書き写した藤原定家の書体は、流麗で柔らかく「イラスト、絵みたい」と感想を述べる人もいました。