53号は、戦後80年の節目であることからトップページと3ページで、更級地区に残る戦争遺跡をさらしなの里歴史資料館のスタッフが取材して紹介。4ページでも、満州更級郷開拓団の痕跡を訪ねた人の報告を写真と一緒に掲載しています。友の会文化部による、さらしなの里のウオーキング企画も久しぶりに開催されました。
戦後80年の更級地区、残る戦争遺跡
今年は第2次世界大戦が終わって80年の節目の年になります。広島・長崎の原爆投下や住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われた沖縄戦、東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った大空襲などの戦災については多くの皆さんがご存知かとは思いますが、長野県にも空襲があり、更級の上空をグラマン(米海軍戦闘機)が飛んだことはご存知でしょうか。
昭和12年(1937)7月に日中戦争が勃発。旧更級村では開戦後の8月に防空演習が行われ、翌年から各地の消防団が「警防団」に名前を変えました。警防団の役割は、それまでの消防、防水の他に、防空と防諜(外国のスパイや破壊活動の備え)が追加されています。
昭和16年12月8日に真珠湾攻撃があり、ついに米英との戦争が始まります。12月10日に旧更級村で村民大会がひらかれ「米英撃滅」の決議がされるなど国内各地で緒戦の勝利に湧きましたが、開戦半年程で戦況は不利となり、敗戦へと進んでいきます。昭和17年に米軍による初の本土空襲があり、旧戸倉町内では昭和19年5月に初の警戒警報が発令され、同年12月には上田で県下初の空襲がありました。
空襲に対する備えは各家庭でも行われ、各所で防空壕が掘られ、白壁の建物は目立たなくするよう墨で黒く塗り、夜間は灯火管制が行われました。友の会文化部長の大橋静雄さんに聞き取りをしたところ、このような戦争遺跡が更級地区にも残っていることが分かりましたので、紹介します。まず上の写真の建物。現在のJAながの南部配送センター(旧ちくま農協更級支所)の土蔵です。白壁にうっすらと墨塗りの跡が確認できます。これは戦時中に塗られたものです。
かつては各家庭の土蔵も黒く塗られていましたが、80年が経ち壁の塗り替えや建物の解体等で更級地区でもほとんど見られなくなりました。左の写真(大橋静雄さん提供)は、数年前に解体された三島公会堂の建物です。壁はほとんど剥げてしまっていますが、墨塗りの跡が確認できます。
戦争末期の昭和20年になると3月10日の東京大空襲を皮切りに、多くの都市がB29による無差別爆撃に晒されました。B29はサイパンやグアムから飛来しましたが、終戦近くになると日本近海に展開したアメリカ軍の空母から戦闘機が飛び立ち、戦闘機の機銃掃射で直接建物や交通機関、さらには民間人を狙い撃ちにしました。8月13日にはついに長野県が空襲の標的となり、長野市と上田市で計47名の命が奪われました。いわゆる「長野空襲」です。
大橋さんのお母様が生前に伝え残した、この空襲の記憶についておうかがいすることができたので紹介します。
大橋静雄さんは当時1歳。空襲当日はお母様が農作業していたところ、松本方面から飛来したグラマンが古峠を超えて更級上空に到達。低空飛行でものすごいエンジン音が聞こえ、お母様はとっさに大橋さんをサトイモの葉の陰に隠し、ご自身も桑畑に逃げ込みました。千曲市内では空襲の犠牲者は出ませんでした。戦争が終わったのはその2日後、8月15日です。
次に羽尾5区に残る防空壕(下の写真)を紹介します。この防空壕は個人宅の庭先の斜面に掘られたもので、高さ1㍍ほど。大人は屈まないと入れない大きさです。訪問した日は猛暑日でしたが、中はひんやりとしており戦後はイモ類の貯蔵庫としても使用していたそうです。戦時中は各家庭でも防空壕が掘られました。みなさんのご自宅にもありましたでしょうか。
さらしなの里展望館の入り口の駐車場にも防空壕がありましたが、現在は埋め戻されています。このようにほとんどの防空壕は現在では埋め戻されてしまっています。
戦争遺跡についてご存知の方、ご自宅で取り扱いが出来なくなった戦争関連の資料がございましたら、さらしなの里歴史資料館もしくは市の歴史文化財センターにご連絡ください。
主な参考文献 「戸倉町誌」
(さらしなの里歴史資料館学芸係・中村徳宏)
台山の後ろに冠着山が隠れている
江戸時代、さらしな姨捨を全国的に有名にした歌川広重の浮世絵が、どのように成立したのか解明する講演会を7月26日、八幡公民館で開催しました。その浮世絵は左に掲載した「信濃更科田毎月鏡台山」で、千曲市が所蔵するこの一枚刷りは日本遺産「月の都千曲」の構成遺産の一つ。ただ、成立の謎は追究されてきませんでした。昔から浮世絵が大好きだった長野市在住で元京都大学教授の鳥類学者山岸哲さんが、鏡台山の描かれ方に注目してこの謎を解く論考を発表したので、講演をお願いしました。
山岸さんの論考で初めて広重が当地にやってきてスケッチを残していることを知りました。それなのに、千曲川の対岸のはるか北側に位置する鏡台山を、浮世絵では長楽寺の近くにあるように描いています。
中央の写真が広重のスケッチで、山岸さんは現地を歩き、このスケッチのポイントを突き止めました。そのポイントから見える冠着山(姨捨山)の場所に鏡台山を移動させてしまったというのが山岸さんの考えです。確かにスケッチには、鏡台山という文字が添えられた山の稜線の後ろに、うっすらと冠着山の稜線のような線が見えます。描き上げた「信濃更科田毎月鏡台山」の鏡台山をよく見ると、後ろに冠着山の頂上の姿によく似た柔らかい線があります。
山岸さんは講演で「優しい広重だから…」と言って、たくさんの聴講者を笑顔にさせていました。講演は、さらしなルネサンスのホームページで記事と動画がご覧になれます。 (芝原区・大谷善邦)
更級の思い出と今思うこと 東京都北区 宮崎大吾
私の生まれ育った千曲市若宮は冠着山が見えない更級地区の端っこですが、子供の頃のさまざまな経験は、冠着山や周辺の豊かな自然と文化がもたらしたものでした。
保育園の頃はお散歩で堂の山へ。沢に丸太を渡しただけの橋は恐怖そのものでしたが、その先の山中にある広場で遊んだりお弁当を食べたりしました。小学校の低学年では、仙石の坂で先生とそり遊び。ひたすら続く林道歩きがつらかった5年生の坊城平キャンプ。学有林の下草刈りにも行きました。その学有林は、少し上の世代がどんぐりの木を植えて「木の実公園」と呼んでいたと記憶します。古代体験パークは私が小学3年生の頃にできました。4年生になると古代体験クラブの初代メンバーとして縄文祭りに参加したことを覚えています。
中学以降は生活環境が変わり、更級に関わる機会は減りました。しかし、山や森について学びたいと考え、森林系の大学に進み、結果的に森林に関わる仕事をしております。チェーンソーを扱うことは無いですが、鉈や調査道具を持って山の中を歩く仕事です。
ところで、数年前に若宮の友達と佐良志奈神社から尾根つたいに坊城平まで登りました。ルート中の地形や樹木、景色を楽しむ中、山城のような人工的な地形を見つけました。現代人はまず立ち入らない場所ですが、昔の人は利用していたのです。この体験で冠着山と周辺の自然と山の利用の歴史に興味が湧きました。興味が湧いただけでまだ何もしていませんが…。
(編集部から=宮崎さんは現在、仕事の関係で東京在住ですが、来春には郷里に戻る予定だそうです)
Turkey!に資料館登場!
千曲市が舞台のテレビアニメ「Turkey!」が日本テレビ系列で放送され、話題になっています。第10部では、さらしなの里歴史博物館がアニメに登場し、物語を盛り上げています。「Turkey!」の放送に合わせ、資料館でもアニメとコラボレーションした展示を行っています。期間限定です。ぜひご覧ください。
満州更級郷開拓団の痕跡を訪ねて
第2次世界大戦中、旧更級郡から満州(現中国東北部)に渡った人たちで組織した更級郷開拓団の跡地を巡るツアーが5月にあり、千曲市上徳間の堀口鉄久さんが参加しました。更級郷開拓団は敗戦間際に旧ソ連軍の侵攻で壊滅。戦後80年の今年は信濃毎日新聞が、かろうじて生還した羽尾(旧更級村)出身の教師塚田浅江さん(故人)の、戦後の教え子たちへの取材などをもとに、反戦の願いを連載しています。
現在も開拓団本部の建物が残っていますが、取り壊される予定だそうです。現地の様子をとどめる貴重な写真を堀口さんの説明とともに紹介します。堀口さんは「あまりにも広い大地。庶民の希望が裏切られた現地を見ることが大事だと思った」と話します。地図は信濃毎日新聞から転載。
さらしなの魅力体感ウオーク
さらしなの里友の会文化部によるウオーキングイベントが9月28日、開催されました。歴史資料館周辺の三島神社、双子塚古墳、代伊勢神社、幅田・円光房遺跡などを巡り、さらしなの里の魅力を地学や考古学、歴史の分野から体感する3時間となりました。
講師は戸倉史談会副会長で友の会文化部長の大橋静雄さんと信州大名誉教授(地学)で明徳寺住職の塚原弘昭さん。冠着山の自然と文化遺産を保存する会事務局長の上水清さんがコーディネーターを務めました。
三島神社の脇に、長楽寺の姨石と同じ岩質の大岩があるのに驚きました。塚原さんによると、この岩もやはり三峯山の40万年前の山体崩壊ですべり下ってきた岩。昔近くの別の場所から運んできたものだそうです。たくさんの「さざれ石」が固まったように見える巖です。山体崩壊に始まる地すべりは、羽尾の堂城山と郷嶺山まで及び、その結果できた斜面に双子塚古墳や代伊勢神社があります。この一帯は古代、都とつながっていた東山道の支道沿いだった可能性があるそうです。
代伊勢神社の休憩所では大橋さんが、面前に広がる現在の千曲川と堤防のあたりに昔、条里制による大規模な耕地があったのではという興味深い説を披露しました。千曲川の流路が旧埴科郡の山並み寄りにあった時代があり、証拠として現在の川向こうの小船山地区に須坂の地籍名が残っていることなどを挙げました。
さらしなの里の縄文時代の様子が分かった幅田遺跡と円光房遺跡の現場も見ることができました。見上げれば冠着山の見事な威容。少し下れば魚がたくさん獲れる千曲川の様子が浮かんできました。
友の会文化部によるイベントは久しぶり。また企画をお願いします。 (大谷善邦)

