107号・明治時代に活気づいた「月の都」

  千曲市の観光キャッチフレーズが「芭蕉も恋する月の都」に決まったこと、そして、その中の「芭蕉も恋する」の意味するところについてシリーズ102で紹介しました。残る言葉の「月の都」とは何かについてです。もともとは旧更級郡、現在の川西地区の人たちが自分たちの住む地域を呼ぶのに好んで使った言葉でした。
 しかし、「月の都」というフレーズが包含する空間は、千曲川を挟んで対岸の旧埴科郡を含めた方が実態に近くなります。両郡域にあった3市町の合併で成立した現在の千曲市がその空間です。
 定家の「月の都」
 さらしな・姨捨を「月の都」と称した句歌は古くからあると言われています。すべて当たれたわけではないのですが、信濃について詠まれてきた和歌を特集した「信濃古歌集」(平林富三編、郷土出版社)の中で見つかった一番古いのは、鎌倉時代初期の歌人で「新古今和歌集」選者の一人、藤原定家の次の歌の中です。
    はるかなる月の都に契りありて秋の夜すがら更級の月
 この歌は、定家の詠んだ歌の大半を収載した私家集「拾遺愚草」に載っているものだそうです。いつ詠んだのか現段階では突き止めることができないのですが、定家は66歳の晩年、信濃国司の任に就いたことがある(シリーズ41参照)ので、そのことと、この歌が関連しているようにも思えます。
 とすると、歌の意味は―京の都から遠く離れたさらしな・姨捨という月の都の地と縁があって信濃国司の任を引き受けた、秋の夜の月を都で眺めていても、更級の月のことが思われてならない…。
 次は俳句です。俳句は俳諧から発展し、松尾芭蕉の登場をもって現在の俳句の土台が築かれるので、そんな古いものはないのですが、古くは江戸時代の天保7年(1836)に詠まれた次の句を見つけました。
    旅なれや月の都に月の秋  (鴫立庵雉啄)
 初代更級村長の「月の都」
 当たれた句歌の資料では、月を詠んだものはあまたあるのですが、ずばり「月の都」というフレーズを盛り込んだものは、江戸時代まではさほど多くはないという印象を受けました。しかし、明治以降になると多くなった感じを受けます。
 頻繁な使い手の一人が旧更級村初代村長の塚田雅丈さんです。雅丈さんについてはシリーズ13、51、52、53などで「更級」の復興に生涯を駆けた方だと紹介してきましたが、「月の都」という言葉を村おこしのキャッチフレーズとして積極的に使った先駆けの人である可能性があります。
 雅丈さんの歌に「月の都」にまつわるものがいくつかあります。
    君が代に月の都と言ふべきはこの更級の姨捨の山
    久方の月の都は信濃なる冠着山の峯にこそあれ
 最初の「君が代に…」の歌は、シリーズ89で紹介したように信濃毎日新聞に投稿して明治22年(1889)3月に載った「実の姨捨山」という論文の末尾にそえたものです。この歌は「日本の歴史上、月の都としてふさわしいのは更級の姨捨山である」という宣言でもあり、「月の都」としての更級を村外に訴えたものです。明治22年の3月は、翌月になる全国的な市町村合併の直前ですから、その機を狙ったものです。
 「月の都」として更級の復活に力を入れた雅丈さんについて、まだ紹介していないエピソードの一つが、「月の都」という提灯を作っていたことです。「汽笛一声新橋を…」の鉄道唱歌の作詞者で国学者の大和田建樹が明治29年に当地の郷嶺山(シリーズ92参照)でお月見をした際の紀行文の中で「(更級村に着いたら)馬は月の都としるせる提灯あまた灯しつづけて…」と書いています。大和田を迎えるため、村で飼っている馬たちに「月の都」と書いた提灯をたくさんぶら下げていたのです。
 大和田は雅丈さんにお月見の世話になります。帰り際には「今よりは人に誇らんいにしへの月の都の月を見つれば」と、「月の都」というフレーズを入れた書をしたためました。
 雅丈さんは当地にやってくる著名人をたくさん自宅に泊めるなどしてもてなすのですが、泊まった人たちが残した和歌や俳句の中に実は「月の都」というフレーズがよく出てきます。
   この舟をあがれば月の都かな  (水野竜孫)
   久方の月の都を人とはば雲の上なる冠着の山  (佐藤寛)
   更級の月の都に来てみれば名にも勝るとなほ思ひけむ   (交野時萬)
 これらの歌は雅丈さんが残したさらしな・姨捨に関する古今の句歌をまとめた冊子に記されているのですが、その裏扉には「月都古今歌集」とも書いており、当地が「月の都」であることに強烈な自尊心を覚えていたことをうかがわせます。
 雅丈さんが「月の都」という言葉を積極的に使ったのは、雅丈さんの家が羽尾という千曲川を見下ろす地区にあったことも関係しているのではないかと思います。鏡台山付近から昇る月をいつでも眺められる高地に暮らしていたので、当地を「月の都」と称していい確信を得ていたかもしれません。
 姨捨駅からの「月の都」
 雅丈さんが「月の都」と表明してから約120年が過ぎました。20世紀の後半はシリーズ61で書きましたように、成長、若者、新しさ、強さが時代の精神になり、太陽がもてはやされ、月の文化は廃れました。しかし、21世紀になって再び月の時代です。「月の都」というコンセプトの再登場は理にもかなっています。
 一つ雅丈さんの時代と異なるのは、「月の都」は旧更級郡だけではなく、鏡台山も含めた埴科、更埴両域、千曲川をはさんで山並みに囲まれただ両岸の地域であることです。昨年の中秋10月3日にJR姨捨駅で開催したトークショーでそれを実感しました(詳しくはシリーズ104)。
  「月の名所」と呼ばれるところは全国にたくさんありますが、同時に「月の都」とも名乗っているでしょうか。「鏡台山に月が現れるときの当地は極楽浄土、月の都でもあった」という趣旨のことをシリーズ106で書きました。このことも合わせ当地には「月の都」としての景観、地理、歴史などの条件がそろっています。
  「月の都」は、漫画家のすずき大和さんが作った松尾芭蕉と随行者のロゴマークとともに、装いを新たにしました。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。