108号・「月の都」と「飛鳥の都」のコラボ

 ことしの中秋のころの満月は9月23日。この日は秋分、彼岸の中日でもあることに気がつきました。秋分は太陽が真東から昇り、真西に沈む日ですが、奈良県には当地の鏡台山のように二つの峯でなる二上山(ふたかみやま)という山があり、秋分の日には、その間のくぼみに太陽が沈むそうです。
 この山は古代から奈良の都にとっても特別の山でシリーズ106で紹介した「山越阿弥陀図」のモチーフになったという説もあります。ことし9月23日は、鏡台山付近から月が現れるとき、奈良では二上山に太陽が沈みます。「平城京遷都1300年」のことしに花を添えるコラボレーションです。
 極楽浄土の山
 二上山が特別な意味を持つ山になったのは三輪山(標高467㍍)の西にあるためです。三輪山は古墳がたくさん作られた古代から神が宿る山として神聖視されてきた山。秋分と春分のお彼岸のときは、太陽がこの山の峯付近から昇るそうです。その三輪山付近から見ると、ちょうど反対側の西に位置する二上山に夕日が沈むわけです。
 三輪山と二上山の間の盆地は大和政権という当時の政治の中心地、つまり都があったところです。二上山の南麓には、大阪平野から奈良盆地に入る、現在の国道にあたる官道の第1号が通過しており、中国や朝鮮の文化や物資が運搬される重要なルートでした。
 人が往来する道が開かれると、当地の冠着山に姨捨山の異名が生まれたように、特徴的な景観、歴史の条件がそろっていれば、人々は物語を紡ぎます。仏教が朝鮮から伝来したのが西暦538年。大和政権は仏教を国の宗教として広めようとしました。仏教では、極楽浄土がはるか西の彼方の光に満ちた世界と教えていたので、大和の国の政治の中心地からは真西に位置し夕日が二つの峯の間に沈む二上山は、極楽浄土そのものとして特別な山とみなされるようになったと考えられます。
 左の写真は、二上山に浄土が現れる信仰をもとに作られた人形アニメーション映画「死者の書」の完成記念ポスターです。人形の後方、二つの峯があるのが二上山を模した画で、標高の高い方が雄岳(517㍍)、低いのが雌岳(474㍍)と呼ばれます。二上山に太陽が沈む感じが分かるので掲載しました。
 物語は、現在の奈良県明日香村一帯に都があった飛鳥時代、朝廷内の権力闘争で殺されてしまった皇子の墓が二上山の雄岳にあることと、山のふもとの当麻寺(奈良県葛城市)に伝わる美しい姫の伝説を踏まえたもので、民俗学者の折口信夫さんが創作した小説「死者の書」が原作です。人形アニメの第一人者、川本喜八郎さんが映画化しました。映画の中では二上山のくぼみの向こうに沈む夕日に皇子の姿がかぶり、さらにそこに阿弥陀如来がオーバーラップするシーンが何度も登場します。
 月と太陽の照らし合い
 見ていてこれは「山越阿弥陀図」の構図だと思いました。シリーズ106でこの画のもとになったのは、源信という日本の極楽浄土観の礎を築いた僧だったと書きましたが、源信はこの二上山のふもとに生まれ育った人なので、「山越阿弥陀図」は、二上山に沈む夕日を見た源信の体験をモチーフに描かれたのではないかという説もあるそうです。
 ただ、すでにお気づきかと思いますが、「山越阿弥陀図」は阿弥陀如来は、太陽ではなく月のイメージで描かれています。太陽よりも月の方が仏教と相性がいいため、月をモチーフにした可能性があります。逆に言いますと、まだ仏教が伝来する前の大和政権下の日本では、神道が主役だったので、太陽の方が、月よりも強い信仰の対象だったと考えられます。
 満月も地平線上では真東から現れるそうです。山に囲まれた地域では標高が高い分、方角の誤差が生じますが、ことしの秋分、9月23日、鏡台山付近から月が現れたとき、振り返れば、はるか先の西の古代の都では、鏡台山と相似形の山に太陽が沈んでいくことになります。
 一つ今号にあたってのお断りは、旧暦8月15日にあたる暦上の中秋は、秋分の日の1日前の9月22日です。国立天文台のカレンダーでは「満月」は秋分と同じ日なので厳密には、23日は「中秋の満月」とは言えません。とすると、9月23日には昨年の中秋(10月3日)、JR姨捨駅で見た鏡台山の月と同じ月が見られるとは限りません。昨年も天文学上の満月は1日遅い翌4日でした。
 1日違うと月が昇る位置も違います。ただ、逆に言うとことしは、満月の1日前の中秋にも二上山付近に太陽が沈むわけですから、少々の誤差はあるにせよ、イメージとしては「鏡台山と姨捨(千曲市)」「二上山と奈良の都」という二つの空間がほぼ同時に現れます。月と太陽という二つの星の光が里を照らし合う―そんな光景を想像しました。彼岸は極楽浄土の意味なので、「今日はお彼岸」という親しみを込めた言い方は、「極楽浄土が現れる日」という宣言でもある感じがします。ことしは「月の都」と「奈良の都」がほぼ同時に極楽浄土になるわけです。
 なお、「平城京遷都1300年」は、都を明日香村一帯から現在の奈良市、東大寺の近くに移したときから、1300百年がたったという意味です。二上山の写真はインターネットの百科事典、ウィキペディアからダウンロードしました。最上部の写真は、昨年の中秋、鏡台山の峯の間からのぼる名月です。JR姨捨駅で森政教さんが撮影したものをお借りしました。

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