28号・佐良志奈神社の700年杉

 明治の町村合併で「更級村」という村名が誕生するに当たって、佐良志奈神社の社標に刻まれた和歌が有力な根拠になったことについては、このシリーズの3、14で触れました。その歌は
   月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里
 佐源治さんの奉納
 作者は「正親町(おおぎまち)三条(さんじょう)(さね)(なる)(きょう)の姑、柳原大夫人」でした。柳原大夫人の名前の前に出てくる「(さね)(なる)」さんは、岩倉具視とともに江戸時代末期、幕府を倒そうとした公家です。維新後は明治政府の職にもつきました。この実愛さんの詠んだ歌の碑も、佐良志奈神社の境内にあることを知りました(写真中央)。
   みな人のすぐなる道をいのるべきしるべに立てる神の綾杉
 人はだれもまっすぐな人生の道を歩みたいと思っているはずだ、佐良志奈神社のご神木はその導きである―という意味かと思われます。同神社宮司の豊城直祥さんによると、三代前、幕末から明治初期の宮司であった直友さんが実愛さんとつきあいがあり、直友さんの息子である豊雄さんが実愛さんに頼んでつくってもらった歌だそうです。実愛さんも神社に一度訪ねてきており、実物の綾杉を見て詠んだのだそうです。その際に実愛さんに書いてもらっていた歌の書を、氏子でいらした旧更級村(現千曲市若宮地区)の高松佐源治さん(故人)が大正4年(1915)、歌碑に仕立てて奉納しました。
 綾杉は枯れたために昭和50年(1975)ごろに伐採され、今はもうその姿はありません。樹齢は約700年だったということ。どんな杉だったのでしょうか。写真(左)がありました。
 帰省時の危機感
 八王子地区(旧更級村)にお住まいの豊城一夫さんが伐採の数年前に撮ったものです。豊城さんが現像して焼いたプリントを、私が複写しました。この写真を初めて見たとき、鹿児島県屋久島の縄文杉を思い出しました。この老大木の頭部には、樹皮が落ちてむき出しになった太い枝があり、鬼の角のようになっていました。
 豊城一夫さんに撮影のいきさつをうかがいました。
 豊城一夫さんは大正10年(1921)、旧更級村で生まれてすぐ上京しました。戦後は村に戻って、しばらく写真撮影の仕事で県内の新聞社などで働き、その後、日本テレビでカメラマンの仕事をしていました。昭和40年代に帰省したとき、綾杉の葉の色が茶色く枯れ始めたので、「とにかく撮っておこう」と思ったのだそうです。
 撮影は夜にしました。夜だとほかの樹木が映らず、綾杉の姿だけが強調されるためです。ストロボを三方向からあて撮影しました。この数年後には完全に枯れてしまったそうです。
 私は昭和36年(1961)生まれ。小学校のころはよく神社の境内で野球をしたり、秋祭りのときは拝殿前の出店でおもちゃを買ったりイカ焼きを食べていましたから、綾杉の元気なころの姿は目の間にあったはずですが、覚えていません。小さいころなので大きすぎて上を見上げるようなことがなかったのだと思います。伐採後の大きな切り株はうっすら覚えています。幹周りは5㍍あったそうです。
 豊城直祥さんのお話では、伐採した木は大半が腐っていましたが、使えるところは、御幣(写真右)にして当時の金額で500円で氏子のみなさんに分けたそうです。200体作りました。白い紙にあたるところは、板金を折って作ってあります。
 元戸倉町長、元県議会議員の大谷秀志さん(2005年9月死去)は短冊にして、歌や漢詩を書き付けていらっしゃいました。その中の一首は
   やどり行く浪のいつくか千曲川岩間も清き秋の夜の月
 意味は、名月の晩の千曲川は流れる水だけでなく岩間の間にたまる水も澄んで清く感じられるものだ、ということでしょうか。神社近くの獅子ケ鼻付近の岩場をイメージしたものと思われます。これら綾杉の形見は伐採から製材、板金加工まで、氏子のみなさんが自分の職業の技を生かして作ったそうです。
 明徳寺、三島、大滝両神社も
    この綾杉が芽を出した、もしくは植えられた700年前、旧更級村はどんな時代だったのでしょうか。鎌倉時代の末期です。「戸倉町の歴史年表」を開いたところ、旧更級村では羽尾地区の明徳寺が創建されたとあります。明徳寺にも大杉があります。これも樹齢が700年くらい。三島地区の三島神社のケヤキの木も七百年以上の樹齢と推定されます。千曲川の堤防から眺めると、仙石地区の大滝神社も含め、それぞれの寺社の境内林は、さらしなの里のシンボル的な社叢になっています。
 現代の(しゃ)(そう)づくりも進んでいます。さらしなの里古代体験パークです。開園の1992年に植栽され、クリやコナラ、クヌギなど縄文時代の植生を中心にした林です。これもいずれさらしなを象徴するものになっていくと思われます。
 最後に、もう一度、佐良志奈神社にある実愛さんの歌碑についてです。豊雄さんはどんな考えで和歌をお願いし、実愛さんはどんな思いでこの歌を詠んだのでしょうか。
 当時は欧米諸国に劣らない近代国家としての日本の精神的な支柱を「国学」に求める人たちが輩出した時代でした。国学とは古事記にはじまる古典を通じて日本の独自性を探求した学問です。目の前に立っている巨木の綾杉に、精神的な支えを求めても不思議ではありません。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。