21号・更級郡の商都だった稲荷山

 市町村合併や生活経済圏の変化によって旧更級郡であっても、今では更級と意識している方は少なくなっていますが、その先代ぐらいまでは更級郡の人間であることを強く意識していたことをうかがわせる歌を見つけました。稲荷山唱歌と更級農業高校の校歌です。
 郡内で唯一の町
   まず、稲荷山唱歌です。吉池辰三郎さんを編集責任者にして1974年に刊行された「稲荷山四百年の歩み」の中にありました。下をご覧ください。稲荷山小学校校長だった下崎熊平さんが作ったものです。下崎さんは明治43(1919)〜大正2年(1913)の校長ですから、今から百年近く前、稲荷山が行政区域としては更級郡稲荷山町だった時代に作詞したものと思われます。
 一番の歌詞で稲荷山を「月にちなめる更級の里の真中に位いする」とうたっています。「稲荷山四百念の歩み」」が出版された1974年の時点では「今も歌われている」と記されています。名月の里であることへの強烈な誇りを感じさせる文句です。
     なぜ、稲荷山の人たちがそれだけ強く意識したかといえば、更級郡の商都だという自負があったためと思われます。
  戦国時代は稲荷山城下の城下町で千曲川に近く耕地の少ないところでした。江戸時代になると、善光寺街道沿いの有力な宿場となります。そして江戸後期から明治にかけて商品経済が発達し人の行き来が盛んになってからは、当時の日本を代表する輸出品で最も換金効果の高かった繭や生糸をはじめとしする農産物、商品の集散地となります。今もたくさん残る白壁の蔵造りの建物はそうした繁盛の証です。
   明治半ば市町村制が施行されたとき(このシリーズの2回目で触れました)、更級郡は1町26村で構成されていましたが、その唯一の町が稲荷山でした。今では長野市方面との生活経済関係が盛んな旧大岡村をはじめとする西山部からも、買い物に来たり、農産物を売りに来たりする人の数がすごかったそうです。
 冠着山意識した街づくり
   冠着山(姨捨山)が更級郡内の町村域を超えて郡のシンボルだったことをうかがわせる歌も「稲荷山四百年の歩み」にありました。同書には桑原小学校と統合されて(1972年)治田小学校になる前の旧稲荷山小学校の校歌も載っていました。1番で「はてなく晴れた冠着の…」と冠着山の存在を強調しています。また稲荷山唱歌の6番でも冠着山を登場させています。
 更級や姨捨をイメージさせる言葉を、校歌の歌い出しに置くところに、旺盛な更級意識がうかがえます。
 稲荷山で最もにぎわいを呈していた荒町通りからは、冠着山が正面に見えます(写真左)。冠着山を意識した街路と言えます。
 校長のお願い
 次に更級農業高校の校歌です。なぜ、調べたかというと、長野市の知人から「篠ノ井にあるのにどうして更級なのか」と聞かれたことがあったからです。
   更級農高の校歌1番は「聖の山に雲立ちてここ更級の高原に」とその立地環境を示す言葉で始まっています。これは戦後の昭和30年(1955)に作られました。もともと更級農高は明治40年(1907)、旧更級郡塩崎村(現長野市塩崎地区)で開校したのですが、当時は既に現在の篠ノ井(旧更級郡篠ノ井町、現長野市篠ノ井)に校舎が移転していました。塩崎には山間地も含まれますが、篠ノ井は平地です。高原ではありません。それでも校歌には「更級の高原」と入ることになった理由をうかがわせる記述が「更農創立七十周年記念誌」にありました。
 当時の伊藤昌治校長先生が戦前の校歌が時代にそぐわないため、創立50周年記念事業の一つとして作ることにしました。長野県諏訪市出身で信濃毎日新聞社の信毎歌壇の選者であった五味保義さんに作詞を依頼しました。五味さんには学校に実際に来てもらい、川中島平一円の地理や歴史に直接触れてもらいました。作詞の希望として、更級の言葉を入れてほしいとお願いしたのだそうです。
 その背景には、聖山周辺一帯を領域とする更級郡の農業振興の推進役を担った更級農高の、歴史的な証を盛り込んで後世に伝えたい、という思いがあったと思われます。
 生徒が図案化
 創立当時の校章(2枚組み写真右)には、もっと強い更級意識がうかがえます。初代校長の矢田鶴之助さんが考案したもので、デザイン化した「農」の周辺を稲穂で囲み、更にその上に月を配しています。矢田さんの意図について70周年記念誌は、矢田校長が作詞した旧校歌の中の「川中島や更級の田毎の月の隠れなき」という歌詞に込めた思いを反映させたものではないか、と解説しています。
 戦後の新校歌の制定に先立つ昭和23年、校章も新しくすることになり、生徒から募集したそうです。20点ほどの応募があり、「1年生の武井佳郎さん」の作品(2枚組み写真左)が選ばれました。「高」を囲む菱形は更級の「更」を直線で図案化したもので、その上にやはり稲穂が載っています。70周年記念誌によると、「四方に卒業生を送り出し、それぞれの分野で力強く活躍してほしい」というのが武井さんの思いだったそうです。

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