22号・「楢山節考」と姨捨と白鳥園

   信州の姨捨伝説を現代の世に広く知らしめてくれたのが、作家深沢七郎さんが1956年(昭和31)に発表した「楢山節考(ならやまぶしこう)」です。木下恵介、今村昌平両監督がそれぞれ映画化したことが拍車をかけました。

 最も象徴的
 実は、深沢さんがモデルとしたところは深沢さんの故郷に近い山梨県旧境川村大黒坂(現笛吹市)です。新評社の「深沢七郎の世界」の中で、深沢さん自身が書いた「楢山節考・舞台再訪」というエッセーの中に、次のように記されています。
 拙作「楢山節考」は姥捨の伝説から題材を得たので信州の姥捨山が舞台だと思われているようだが、あの小説の人情や地形などは、ここ山梨県東八代郡境川村大黒坂なのである。もちろん現在のここの風習ではなく、もっと以前のこの土地の純粋な人情から想像してあの小説はできたのだった。だから「楢山節考」に出てくる言葉―方言は信州ではなく甲州弁である。
 深沢さんは大黒坂地区と縁があって、食糧難の戦後、同地区で米の飯を食べさせてもらいながら何日も泊まっていたそうです。そのうちに、村人たちの生きていくギリギリの暮らしの中に湧いた人情や風習が好きになり、それが執筆の原体験にあるという趣旨のことを書いています。
    そうであるのなら、小説の中で舞台を山梨県あるいは甲州であると記することもできたはずです。そうはしなかったのは、かつて各地にあった姨捨伝説がなくなっていく一方、信州更級の姨捨山の存在が広く世に知られるようになっていたからです。

  戦後の空気
 楢山節考は三島由紀夫ら当時の有力作家3人の選考によって第一回中央公論新人賞を受賞します。今から考えると、当時の文壇が楢山節考に寄せた賛辞や興味・関心は不思議な感じもします。これを小説と言っていいのか、ただ童話とも昔話とも違うし…。
 この小説が世に出た時代が影響していると思います。発表された1956年は高度経済成長が軌道に乗り始めたころで、いわゆる「右肩上がり」の時代です。戦前的な価値観の否定に伴って、その一つの柱だった「老い」が嫌われ、「若さ」がもてやはされるようになりました。前年の55年に今の東京都知事、石原慎太郎氏が書いた「太陽の季節」が芥川賞を受賞したことが象徴しています。「太陽の季節」は若者の破天荒な性や暴力の描写で話題になり、南田洋子と長門裕之のコンビで映画化され、大ヒットしました。
  そうした中で、老いを正面からモチーフにし、棄老という残酷な風習ながらも貧困の不条理に精神的に打ち勝とうとする人間の強さを描いたのが楢山節考です。主人公の老婆おりんの存在が圧倒的です。人間の本性を突く祭り唄や童謡が劇中に不気味に挟み込まれている文体も、戦後の合理的かつ論理的な考え方を重視したいわゆる知識人の関心を引いたのだと思います。
  木下監督による映画「楢山節考」は、映画「太陽の季節」が公開されてから2年後の1958年。老いと若さの価値観のせめぎあいが行われていたとも言えます。ある意味で映画「楢山節考」は戦後の流れに異議を申し立てる作品だったのですが、時流をとどめることはできませんでした。今村昌平監督の「楢山節考」の公開は小説から27年たった1983年。世界の三大国際映画祭の一つであるカンヌ映画祭で最優秀賞を取ったことで再び姨捨伝説が注目されますが、木下監督の作品とは違い、どちらかと言えば土着の人間のたくましさを強調する内容になっています。

 「やなことするだや」
 しかし、20世紀末、高齢社会が現実になると、「老い」が多くの人のテーマになり始めました。それを強く感じたのが、千曲市戸倉(旧戸倉町)の温泉保養施設「白鳥園」ででした。たまたま行ったときに大広間の舞台で、妻と長男に先立たれ、嫁に邪険にされている痴ほう老人の物語が演じられており、迫真力に驚きました。
 痴ほうの父親をふびんに思う実の娘が「優しかったお母さんに会わせてあげる」と言葉を投げかけ、父親が納屋に入り階段を上り始める場面では、思わずこぶしを握りしめました。娘が「お父さん、前に縄がぶら下がっているでしょ」と言うのです。「やなことするだや」と観客席からため息が漏れますが、納屋の入り口には(こも)がかかり観客に中は見えません。すると「そこに顔を入れて思い切り飛び降りるのよ」と娘。そして階段を踏み外す音、悲鳴…。
 旅劇団「(はな)(おうぎ)」のおはこの一つ「帰ってきた男」でした。座長の梅沢はじめさんが、時代劇仕立ての白痴殺しを痴ほう老人殺しに置き換え、数年前から上演するようになりました。この芝居には、いじめを見透かし嫁をからかう老人のユーモア、恨みと義理のはざまで苦悩する二男など観客を飽きさせないさまざまな仕掛けが盛り込まれ、退屈することがありませんでした。

 恩返し
 芝居後、楽屋に梅沢さんを訪ねました。梅沢さんには濃厚な「お年寄り体験」がありました。生まれたのは興行先の兵庫県姫路市内の寺。芝居を見に来るお年寄りが弁当を作って持ってきてくれるほどかわいがられていました。胃腸が弱くすぐ下痢をするので「食べ物を与えないで下さい」と書いた札を首からぶら下げるほどでした。
 梅沢さんは成人してからは、興行で一カ所を3年に2回くらいのペースで訪ねていたのですが、最初元気だったおばあちゃんが壊れていくのを感じたそうです。亡くなったお年寄りも多く、すごく寂しかったそうです。母親のしのぶさんは「今、恩返しをしているんですかねえ」とおっしゃっていました。
 海沢さんに姨捨伝説の舞台化を頼んだところ、「さらしなの里歴史資料館」に調査に行って、即興で見事に芝居にしてくれました。約一時間半の上演に、大広間を埋めた約300人の観客は飲食を忘れて一喜一憂していました。
 姨捨伝説には、老いをめぐって繰り広げられる人間の真実が盛り込まれているーだから古今の作家たちの心を、小説に映画に舞台に表現させてきたとは言えないでしょうか。

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