63号・先発の太陽、抑えの月

 どこの国にも太陽と月が姿を見せるのに、なぜ日本では月が太陽の補完的な役割を与えられたのか。
 四季のある島国
 一つに考えられる背景が日本に四季があることです。気象学上、日本は温暖湿潤季候にあり、これは平たく言うと春夏秋冬の変化があり、梅雨がもたらす雨で稲作が可能な条件を備えたところです。
 今から1100年前の平安時代中期、天皇の命令で成立した「古今和歌集」にもすでに季節ごとに歌が並べられています。春夏秋冬との関係が強い文芸としては俳句がありますが、和歌も四季との兼ね合いで詠まれていたわけです。現代では季節との関係が深い文芸は季語のある俳句が身近です。しかし、実は俳句は和歌を踏まえ誕生した文芸です。俳句の基盤をつくったのは和歌の四季感だったわけです。四つの季節を設定すれば、月が四度楽しめます。これも月を暮らしに身近にした理由ではないでしょうか。
 それだけではちょっと弱いよね、という方に二つ目です。日本が島国であったことです。
 日本は周りを海に囲まれているので、歴史的に大国の征服の対象になかなかなりませんでした。征服。支配欲にとりつかれた国は過去の歴史を見ますと、「太陽の国」とも言えます。エジプト、スペイン、トルコ、モンゴルなど乾燥、砂漠の季候の国々です。太陽の陽射しが強烈過ぎることも要因ではないでしょうか。
 今挙げた国の一つ、モンゴルにかつて日本は、征服の危機に脅かされたことがありました。鎌倉時代の歴史のトピックとして教わる「元寇」です。現在のアジアからヨーロッパ、ロシアまで巨大な帝国を作ろうとしていたチンギスハンの孫にあたるフビライの軍勢を、九州博多湾岸で後に「神風」と呼ばれる突風とともに撃退し難を逃れることができました。もし、神風が吹かなかったら今のような日本の「月の文化」が盛んになっていたかどうか…。
 中世に根付いた仏教
 もう一つ、三つ目が仏教です。宗教学者の山折哲雄さんは、「涙と日本人」という著作の中で、日本人の意識は三層構造からなると言い、真ん中の中層に中世に培われた仏教感覚があると書いています。
 三層構造とは一番底に古代の神道的な感覚、そしてその上に中世の仏教感覚、さらにその上の表層に個人主義に根ざした明治以降の西欧感覚がのっているという考え方で、中世とは鎌倉時代から江戸時代前までのことです。中世の始まりは、平安末期から鎌倉初期に念仏を広めた法然、その弟子で浄土真宗の開祖である親鸞が活躍したころと重なり、仏教が大衆化していった時代で、法然が月を詠んだ「月影の至らぬ里はなけれどもながむる人の心にぞ住む」という歌が象徴的です。
 シリーズ62号で触れたように仏教は月と相性がいいせいもあり、人間の成長にとっての月の大事さが日本人の人生、世界観に沁みこんでいった可能性があります。
 以上のような三つの理由、つまり日本では太陽が強大、強力にならない、させない気候,地理的、宗教的な条件があったのです。
 乱調だと…
 「太陽の国」という言葉はあっても、「月の国」という言葉はあまり聞いたことがありません。月は太陽のシンプルさ、強さに比べると、複雑でやさしいという感じです。この対比は各界で台頭したり目立ったりする人やモノと、そうはならない人やモノという関係にもあてはまります。
 作家で東京都知事の石原慎太郎さんの「太陽の季節」はそのタイトル通り、太陽的な小説でした。戦後は高度経済成長の勢いが強く太陽が強力になりすぎ、それまで日本が無意識に築いてきた太陽と月のバランス関係を崩しました。
 補完関係を別の言い方にすると、「先発の太陽、抑えの月」になります。野球は先発投手が試合の行方をまずリードします。剛速球も必要です。しかし、長いイニングは体力、気力が持たないので、抑えの投手が当番します。抑えは派手ではありませんが、確実にリードを踏まえて試合を終了させます。
 先発が不調だと、リリーフ投手が苦労します。勝負に勝てないことがほとんどです。また、リードしていても抑えが乱調だと、試合に負け、次の試合にも悪い影響を与えかねません。62号で触れた室町幕府の足利義満(太陽)と義政(月)の関係は、抑えが乱調を起こした例です。先発が強力であっても抑えが不調だったために戦国時代を招きました。
 子規の「月並」批判
 日本が世界に誇る短詩形の俳句は江戸後半に大衆の間で盛んになりました。江戸初めの日光東照宮(太陽)が先発して、俳句に象徴される月の文化が抑え役として活躍した三百年と言えます。幕末に盛んになっていた寺子屋も月の文化の成熟を示す場でした。
 ただ。幕末から明治にかけては逆に月が強くなりすぎたところがありました。俳諧を俳句に昇華させた先覚者、正岡子規は芸術的な味わいのない俳諧を「月並」と呼んでさげすみました。月並という言葉はもともと毎月開かれる句会を言っていただけで、そこには蔑視の意味はありませんでした。
 子規は「歌よみに与ふる書」という歌論の中で、俳諧に通じ過ぎた老人の弊害を指摘しています。その弊害の象徴として「月」が選ばれたわけです。確かに俳人の最も意気軒昂なときは中秋の名月だったので、子規が「月」を攻撃の対象にした意図も分からないわけではありません。これは「月」の力が日本人の精神性の中で強くなりすぎていたことの証左です。
 明治時代になって、先発の太陽は強力でしたが、長く当番して不調に陥ったのが戦後です。シリーズ61号で紹介した「更級人『風月の会』」の結成に象徴されるように月の位相にある現代は、先発の太陽に代わって当番している抑えの投手です。これが負け試合になるか、しっかり抑えて次の時代を到来させるか、その力量、手腕が問われています。
 月の季節を経て、さらしなの里、日本は次にどんな太陽の季節、太陽の文化を生み出すのでしょうか。
 上の写真は、わが家の居間にある神棚。毎年末、佐良志奈神社の氏子のみなさんに配られる伊勢神宮(天照大神)のお札です。佐良志奈神社のお札と一緒に供えています。右の写真は更級小学校歌の2番、長野県歌「信濃の国」で知られる浅井洌の作詞で直筆です。2行目に「心の月の曇りなく」とあります。

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