82号・平家物語の月見に刺激され更科紀行

  当地への松尾芭蕉の旅に、同行、お伴をした人がいます。芭蕉の門人の一人、越人です。北陸(越の国)の生まれなので越人(本名は越智十蔵)と呼び、名古屋で染物屋をしていたとされます。芭蕉より十数歳年下ですが、芭蕉の旅のきっかけには越人が大きくかかわっていたかもしれません。
 動乱下での月見
 芭蕉が更科の旅から江戸に戻ってまもなくまとめた「更科姨捨月之弁」(シリーズ前回81で紹介)の冒頭にその証拠となるものがあります。活字に起こしたものを下に掲載しました。書き出しの「あるひはしらら吹上ときくにうちさそわれて…」という文章に注目してください。
 この言葉は平安時代の末期、貴族に代わって政権を握りながら滅亡した平家一族を描く「平家物語」の「月見」の章の中にある一節です。平家政権が対立勢力の源氏の攻勢を受け都を京から福原(神戸市兵庫区)に移したのですが、動乱の中でも平家の武者や女たちは戦争ばかりではなく「中秋のころになったのだから」と観月の名所をみんなで訪ねるという話が展開する場面です。この場面を芭蕉は当地に旅することになった動機として記しているのです。
 「しらら」は石英砂のために白く見えることで知られる和歌山県白浜町の海岸、「吹上」は和歌山市西南の海辺の地区で、風が吹き上げるように吹いたことでこの名前があります。「あるひは」は「ある者は」の意味。ですから、この冒頭の部分は、中秋になって平家一族のある者は、これらの月の名所に観月に行ったと平家物語が伝えているのを聞いて、私はさらしな・姨捨の月をみないではいられなくなった、という表明です。
 酔うと「平家」
 更科への旅のエッセンスとも言える「更科姨捨月之弁」を芭蕉がなぜこの一節から書き始めたのか。越人が平家物語の謡いを得意にしていたからではないかと思っています。
 そのことをうかがわせる資料が、芭蕉の文章に残っています。更科への旅を終えて越人とともに江戸に戻って冬に書いた俳書の中で、越人のことを「性酒を好み酔和すると平家を謡う、これ我が友なり」と紹介しているのです。「二日勤めて二日遊び…」とも記し、その明るい性格を芭蕉が気に入っていたこともうかがえます。
 この越人とのコンビは更科紀行の内容にも影響しています。越人と同行することによって楽しい旅になったことを表現しているようにも思えるのです。木曽の道中では荷物を背負って腰が曲がった老僧と出会います。芭蕉はこの老僧と宿をともにします。夜、句を詠もうと思いますが、老僧がやたらと仏法の話をしてくるので困惑します。しかし、芭蕉はそれも旅の風雅とみなし、楽しんでいる様子がうかがえます。
 平家物語といえば木曽義仲のくだりがよく知られていますが、越人はこの場で義仲を謡って芭蕉を楽しませたかもしれません。
 琵琶も持参?
 さて、ではなぜ芭蕉がそこまで「あるひはしらら吹上」に思い入れを抱いたのか。敗者への共感が背景にあると思います。芭蕉は「朝日将軍」と呼ばれるほどに源氏勢力の切り込み隊長として活躍しながら後に鎌倉幕府を開く味方の源頼朝に見限られ滅んでしまった木曽義仲を、特に敬愛していました。後の旅になりますが「奥の細道」では、やはり平家打倒の功労者でありながら、結局頼朝に嫌われ東北地方に逃れざるを得なかった義経ゆかりの地を思い入れをもって訪ねています。
 義仲、義経に限らず平家も含め滅んでいく武者たちを情感豊かに描く平家物語でしたので、そうした武者たちだって動乱の中で名月を見ようとする芸術心を持っていたことに学ぶべきものがあると考えたかもしれません。
 死を前にした平家の人々だって月を大事にしたのだから、戦乱のなくなった江戸時代の自分なら余計に名月を観賞しなければならない。その場所は信濃のさらしなの里・姨捨山ではないか。それにしても美濃の国(岐阜県)の出発(8月11日)からわずか4日という強行軍の旅を私はなぜするのか―越人の謡いを聞きながら芭蕉はこんなことを確認し、また自問自答していたかもしれません。越人は平家物語を奏でる楽器の琵琶を持って同行したかもしれません。
 中央の絵は芭蕉の更科姨捨来訪320年を記念した「まんが松尾芭蕉の更科紀行」(すずき大和著)の中で、越人が「月見」の章を謡っている場面。右が芭蕉です。左の写真は、芭蕉の来更250年を機に越人を顕彰し、長楽寺境内に昭和11年(1936)建立された石碑です。無名庵霞遊の出資揮毫だそうで、「越智越人随行塚」と刻まれています。

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