83号・松尾芭蕉が歩いた道、今もなお

 2008年5月のゴールデンウイーク、子どもたちを連れて三峯山(1131㍍、聖高原スキー場の頂上)に登りました。聖湖から地元の麻績村が運営するリフトに乗ってあっという間でしたが、北アルプスや冠着山(姨捨山)はもちろん、四方を見渡せるその眺望はすばらしいものでした。そのとき、麻績村と現在の筑北村(坂井、坂北、本城の旧三村)方面を写した写真が左です。
 この登山の後、松尾芭蕉が「更科紀行」にまとめた街道を歩きました。芭蕉の更級姨捨来訪320年を記念した「まんが松尾芭蕉の更科紀行」(著者はすずき大和さん)を制作するためです。旧四賀村(現松本市)の会田宿から立峠を越えて猿ヶ馬場峠を抜け、中原(千曲市)に出ました。この写真にその歩いた道の大半が映っていたことに後になって気づきました。
 左の写真で言うと、立峠をこちら側に下り、それからいくつかの山の尾根を越えます。そして麻績盆地を横切ります。そこから猿ヶ馬場峠に斜めに走る道です。平安時代ぐらいまでは立峠までのあたりが更級郡の郡域とされていました。
 この道は東山道(支道)、善光寺街道、北国西街道などと歩く時代や利用の目的によって呼び名が違います。東山道とは古代、大和朝廷が全国支配をするために設けた京から信濃を通って新潟に抜けるための道。善光寺街道は長野市の善光寺詣でをするために旅人が往来したことから付けられた名前。北国西街道とは、江戸から碓氷峠を越えて千曲市を通って北陸に向う北国街道に対し、西側にある道なのでこの呼び名があります。
 同じ道なのに多様な呼び名があるというのは、それだけ多様に歩かれたということです。2009年が善光寺の御開帳の年であることから、車ではなく歩ける善光寺街道をかつてそうだったように「巡礼の道」として再生させようという取り組みも始まっています。お仙の茶屋の現代版も登場しました。
 この街道沿いには芭蕉が通ったときのことを思い起こさせるようなものがたくさん残っています。難所の一つ、立峠の前後の宿のたたずまいは特にすばらしい。宿というのは旅人が泊まったり休憩する旅館や飲食店街のこと。宿の間をつなぐ道沿いには道祖神や風情のある寺社があり、歩くことを飽きさせません。
 地元の方は「だれも歩かなくなったからだ」と謙遜しますが、それが宝です。筑北一帯は千曲川と犀川に挟まれた高台にあり、信州のテーブルランドです。高台にあるがゆえに、平場の地には及ばないものがたくさん残されています。

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