84号・清長寺の丸窓に芭蕉は月を見たか?

  JR坂北駅(長野県東筑摩郡筑北村)を降り、駅前通りを進んで三叉路を左に折れます。まもなく上り坂になり、その両側に旧青柳宿の家並みが連なっています。さらに200㍍ほど行くと、左の写真の風景が現れます。三角山のふもとに丸窓。なんとも印象的な構成です。清長寺という名前のお寺です。
 戦中に釣り鐘を供出
 丸窓は建物の上階部分にあり青柳地区はもちろん、北アルプスも望めます。一幅の絵画です。
 ここは中世(戦国時代)、この地に勢力を張った土豪、青柳氏の居館のあったところ。居館とは平たく言うと屋敷です。松尾芭蕉がこの青柳宿を通ったのは戦国時代が終わって約100年後(1688年)なのでこの清長寺はあったことになり、どんな経緯で丸窓が特徴的なお寺になったのか知りたくなりました。
 寺に現在はだれも住んでいません。地元の筑北村役場産業課の青島彰さんにお目にかかったところ、青柳宿にお住まいの郷土史研究家、青木哲夫さんが詳しいとのこと。その場で連絡したところ、突然のお願いにもかかわらずご案内をお引き受けいただきました。青木さんは村の文化財保護調査員もお努めです。青木さんのお宅は清長寺の近く、江戸時代は大和屋という屋号を持つ旅籠で、お寺の畑を借りて耕作し親しい関係だったそうです。
 残念なことに清長寺は明治になって火災に遭い、文書類が焼けてしまい、江戸時代前のことは文献ではほとんどたどれないそうです。ただ、青木さんは無住になる前の住職十五世とその前の十四世とお付き合いがあり、青木家のお墓も現在はお寺の中にあります。
 丸窓のあるやぐらは山門と鐘楼を兼ねていたそうです。確かに、天井の梁には、鐘をぶらさげる引っ掛け口の金属が残っています。先の大戦で軍事用に供出し溶かされてしまい、今はありません。十四世の住職が貯金して新たに鋳造しようとしたのですが、結局果たせないままになってしまったそうです。
 丸窓は四方にそれぞれあるので、四つの景色が眺められます。北側にはしだれ桜(下の写真)があり、「お花見の季節は本当にきれい」と青木さん。
 善光寺街道に貢献
 青柳氏は左の写真の山の頂上に、お城をつくりました。松が一本、飛び出て見えるところです。城下は三方を山に囲まれ、小宇宙的な空間です。清長の時代に勢力が充実しました。清長の息子、頼長は江戸時代の前、1580年(天正8)、北側の麻績、善光寺につながる道としてそれまでは上り下りしていた丘の尾根を掘り下げました。「青柳の切り通し」として知られる重要な遺跡です。地図の中にある写真がそれです。
 手間のかかる工事をした理由は、青柳宿の西側、地図でいうと下側は、川が流れ下り別の川と合流し、大雨のときは水が出やすかったためです。頼長のおかげでたくさんの人と物資が往来しやすい安定したルートになり、関西方面から善光寺詣でする旅人も助かったと思います。
 切り通しの深さは約6㍍。頼長がまず3㍍ほど掘り下げ、江戸時代の1700年代以降、さらに3回に渡って掘り下げが行われ現在の深さになりました。ということは、芭蕉が通ったのは1688年ですから、そのときは今よりまだ3㍍ほど高い位置だったことになります。
 3氏の挟間
 このようにがんばった青柳氏ですが、その盛衰には悲運を感じます。越後の上杉と甲斐の武田両氏に翻弄され、ついには青柳氏の南隣の松本一帯に勢力を張る豪族、小笠原氏の謀略で滅亡してしまったのです。
 最初は小笠原氏の命に応じ、武田信玄を迎え撃つのですが、小豪族の青柳氏は勝負にならず、結果的に信玄の配下に入ります。以来、信玄が死ぬまでの約30年間、武田家の家来として青柳を守りました。信玄の死後、今度は上杉勢に攻め込まれ、やむをえず支配下に入りました。小笠原氏は武田、上杉両氏の間で独自の勢力を拡大しようとしており、青柳氏の当主である頼長を松本に呼び出し、頼長を殺してしまいました。
 頼長の支配地を奪ったものの村人の強い反感を受けた小笠原氏は、これをなだめるため、頼長の父親で青柳氏の始祖とも言える清長が建てた清長寺を、頼長が住んでいた居館跡に再建したそうです。ですから、その再建された清長寺を芭蕉は眺めたことになります。
 そんなお話を青木さんからお聞きしているうちに、芭蕉の敗者好きの性分ことが思い浮かんできました。青柳氏の悲運の情報を芭蕉が知っていたかどうか分かりませんが、もし知っていたら、特別な思いでこの写真の景色を眺めたと思われます。
 良寛のような15世
 では、丸窓の山門兼鐘楼が芭蕉の時代にあったのかどうか。少なくとも現在のものは明治ではないかということです。資料がないので、なんとも言えませんが、もしあれば芭蕉はこの丸窓を見て、これから訪れるさらしな姨捨の中秋の名月のことを思い浮かべたでしょうか。
 寺の境内には芭蕉の句碑はありませんが、十四世住職の詠んだ「俳禅に虚実を指す月桜かな」の碑が鐘楼の脇にあります。解釈が難しい句です。丸窓を通して月と桜を詠んだ句ではないかと思います。
 訪ねたときは、鐘楼の入り口に庚申塔があり、太陽とお月さんが対照的に刻まれ、お月さんは黄色くなっていました。まさしく月の色です。青木さんによると、カビの一種だそうですすが、不思議な偶然でした。
 清長寺は十五世が1985年、86歳で亡くなって以来無住だそうです。お名前は水上孝行さん。「良寛さんのようにおおらかでやさしい人で、酒好き。書もよく書いてもらった」と青木さんは言います。維持が大変ですが、今も村の体育祭が終わると、地区の人たちがこの境内で焼肉をしたりしているそうです。

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