更旅47号 自分史の先駆け「更級日記」

 「更級日記」が作者のどんな思いと背景から誕生したのかについて「なるほど」と思う文章がありました。元文化庁長官で京都大学名誉教授の河合隼雄さんがお書きになった論文「『浜松中納言物語』と『更級日記』の夢」です。河合さんは人間の無意識と夢の関係を重視するユング心理学研究の第一人者で、論文も更級日記に登場する夢を分析しています。
  阿弥陀如来の夢
 夢は荒唐無稽なもの、意味もないものと考える人は今では少ないでしょう。確かに内容的にはそうでも、それは人間のなんらかの真実を反映していると言われるようになりました。
 今から、1000年も前に、その夢の意義を認識していたのが、「更級日記」作者の菅原孝標の娘であると、河合さんは評価しています。更級日記の中で孝標の娘が記した夢は全部で11あり、河合さんが一番重要と指摘するのが、最後の夢です。
 晩年、金色に光り輝く阿弥陀如来が孝標の娘の枕元に現れる夢です。このとき阿弥陀如来が、今回はこれで帰るが、またあとで迎えに来ることを約束してくれたというものです。孝標の娘はこの夢によって「死後の平安」の確信を得ることができたのではないか、と河合さんは言うのです。
 左の写真が藤原定家が書き写して今に伝わる「御物更級日記」の中の、その夢の冒頭を記した部分です(藤原定家と「御物更級日記」については45号を参照)。笠間書院の影印本から複写しました。変体がなの部分を現代のひらがなにしてみます。
 十月十三日の夜の夢に、いたる所の屋のつまの庭に、阿弥陀仏たち給へり。さだかには見え給はず、霧ひとへ隔たれるやうに、透きて見え給ふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮花の座の、土をあがりたる高さ三四尺、仏の御丈六尺ばかりにて、金色に光輝き給ひて…
 末法思想の只中で
 「死後の平安」へのあこがれは、孝標の娘が生きた平安時代末期の人たちが共通して持っていました。この時代は世の中が乱れ「釈迦の教えが行われなくなる」という悲観的な社会観、いわゆる「末法思想」が広まっていました。貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつある動乱期だったためです。特に1052年(永承7)は末法元年と考えられていたそうです。
 菅原孝標の娘が亡くなったのが1060年ごろ(享年52歳ぐらい)とされていますので、彼女はまさしく末法思想の只中を生きたことになります。とすれば、阿弥陀如来が枕元に訪れた夢は何にも勝る幸福であったとしても不思議ではありません。河合さんもこうした時代背景を踏まえ、この夢を見ることによって更級日記の構成が決まったのではないかと考えています。
 孝標の娘にしてみれば自分は若いときから相当に大切な夢を見ていたが、もうひとつ本気でかかわってこなかった。その中で今でも記憶しているものを記してみると、実はこのように自分の人生に深いかかわりがあった―という姿勢で更級日記を書いたのではないか。ただ、夢によって自分の信仰の深いことや夢を重要と考えていることを、読者に押し付けるようなものの言い方をするよりも、自分の場合を「否定的」に示すほうがいいと考えたのではないか。以上が河合さんの分析です。
 私小説につながる
 この「否定的」というのは、晩年の自分の境遇について「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵だづね来つらむ」という和歌を詠んだところに代表されるように、あえて自分を山に捨てられたオバと位置づけたことです。否定的に描いた方が、この日記を読む人の奥深くに自分の主題が伝わると考えたのでないか―これも河合さんの分析です。これは現代の私小説にもつながる作家の創作作法です。
 更級日記は源氏物語に比べ、劇的な出来事が描かれていないためあまり文学として評価されないところがあったのですが、一方で、自分の人生を自覚的に振り返り、他人が読んでも分かりやすい日記の古典として、高く評価する研究者がいます。
 心に納めるには
 こうした日記を書くことの重要さについての河合さんの指摘にもうなづくところがありました、河合さんは「外的な現実を他人に伝えるためにはその事実を記述することが重要。ただ、それ他人に伝え、自分の体験を他人に追体験してもらうためには物語ることが必要である」と指摘し、「釣り」を例に挙げて解説しています。
 思いがけない大きい魚を釣ったとき、その事実のみを伝えるのなら、魚の体長や重さを記述するだけでいいのですが、それを釣ったときの「感激」を伝えるためには、「物語る」必要があります。両手を広げて示す魚の大きさは必ずしも魚の大きさと確実に一致している必要はないということです。つまり、自分の体験したことでも、それを自分の心の中に「収める」ためには物語りが必要で、他人に物語ることによって自分のものになったり、心に収まってくるということです。
 河合さんによると、事実を事実として記述する自然科学的方法が人間と関係なく事実を語るのに適しているのに対して、物語は逆に関係づける作用を持っています。それは物語る人、聞く人にとって、自分と他人、人間と動物や物、生者と死者、自分の心のなかの意識と無意識などを関係づけます。そして「そのように縦横無尽に張り巡らせたネットワークのなかに自分を位置づけることにより、人間は安心して生き、死ぬことができる」―と河合さんは言い切っています。
 思い出があふれる
 自分の来し方を心の中に納めるには物語ることが必要で、それによって安心して生き、死ねる―河合さんのこの指摘を読んで思ったのは、今、中高年の方を中心にまとめる人の多い「自分史」は、更級日記と同じ心の欲求から書かれていると言っていいのではないかということです。
 もちろん、ただ夢を書けばいい、夢を書かなければならないということではありません。更級日記には和歌が約80首あり、これらの和歌が少女時代からの人生を物語っていく上での重要な役割を担っています。菅原孝標の娘は自分が書き留めていた歌をもとに記憶を呼び起こし、日記を書いた可能性もあると私は推測しています。
 いずれにせよ、物語ることの核となるものを持っていれば、自分史が書けるのは間違いありません。アルバムの中の写真、手紙、形見の品々、8㍉フィルム、映画…。それぞれの人に、それを見たり手にすれば思い出があふれ出すものがあるでしょう。
 右の写真は日本大学総合図書館蔵の「絵入り更級日記」の中にある阿弥陀如来の夢の部分です。この本は版木でつくった版本と呼ばれているもので、今で言えばこの絵はカット、挿絵にあたります。菅原孝標の娘の枕元に阿弥陀如来が現れているという構図です。  河合さんが分析、解釈を加えたもう一つの古典「浜松中納言物語」も、「更級日記」の書かれたころと同じ平安時代後期の11世紀半ばの成立で、これも菅原孝標の娘が書いたという説が有力です。

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