153号・巧妙に付けられたタイトル「更級日記」

 平安時代に書かれ、当地の名を全国に知らしめた「更級日記」。タイトルに「日記」という言葉があるため、個人の生涯を振り返った自分史のようなものと思ってきたのですが、そうしたとらえ方では不十分であると研究者の本を読み、反省しました。更級日記は、読者に読まれることを強く意識した「物語」であると考えた方がいいようです。日記のように時間順に人生をたどる形を取りながら、平安貴族の女性の心の真実を描こうとした私小説です。平安時代の物語というと「源氏物語」が有名ですが、更級日記は源氏物語を強く意識しながら構想が練られ書き上げられたそうで、文学としての価値が再評価されています。「更級」という地名も巧妙に選ばれてタイトルに付けられたのではないでしょうか。
 頼通の文化世界の中で
 流通経済大学教授の和田律子さんの「藤原頼通の文化世界と更級日記」(新典社刊、下に表紙の写真)という本に大変触発されました。この本は、平安文学研究者の方々のこれまでの論考を分かりやすく整理した上で、更級日記が書かれた時代とその内容の構造を関連付けて解説しており、平安時代の文学を研究した女性研究者を顕彰する第4回関根賞(2009年)を受賞しました。
 一番、わくわくしたのが、更級日記作者である菅原孝標女(以下、孝標女)と、時の最高権力者、藤原頼通との関係です。頼通は源氏物語を紫式部に書き上げさせた藤原道長の息子で、道長の後を継いで約50年にわたって関白を務めました。この時代は女性歌人をはじめたくさんの文芸に携わる貴族が活躍したのですが、そうした文芸世界のプロデューサーとしても活動しました。その文化世界の一翼を担う一人として孝標女は、天皇(後朱雀)の娘でもある頼通の孫(祐子内親王)の世話をする「女房」として頼通に抜擢された可能性があるということです。
 更級日記には実際、孝標女が頼通の孫の家に出仕した記述があります。「きこしめすゆかりのある所に、なにとなくつれづれに心細くあらむよりは、と召すを」と書かれ、高貴な人から出仕要請を受けたことがうかがえます。この「きこしめすゆかりのある所」が頼通の孫である祐子内親王家で、要請したのは頼通ではないかと和田さんは書いています。そして孝標女は祐子親王家で約10年間、働きます。
 孝標女は時の最高権力者に目をかけられ、その孫の皇族に10年も仕えたわけです。祐子内親王家は頼道が構築しようとした文化世界の中でも一番力を入れた文化サロンで、女流歌人のほか、シリーズ152で紹介した能因法師もそのサロンに参加し歌を作っています。そんな文化的な空気の中で仕事をした孝標女です。孝標女は物語を作る才能が認められて召し上げられた可能性があるそうです。なぜ、物語を作る素養がもてはやされたかと言えば、それは源氏物語の成功です。物語が高貴な人たちの最大の関心になるような平和な時代だったので、余計重宝されたのです。こうした政治、文化的な背景を踏まえ、更級日記を孝標女は書いたのではないかというのが和田さんの考えです。
 紫式部の日記も踏まえ?
 和田さんは更級日記の文中に、実際にどのような文化的な背景の跡があるかも読み解いています。重要なのは冒頭の書き出しだそうです。
 更級日記の冒頭は「あづま路の果てよりもなほ、奥つ方に生ひ出でたる人(中略)世の中に物語というもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ…(はるかに遠い東国よりさらに奥の田舎に生まれた少女(=孝標女)が、世の中にある物語をたくさん読んでみたいと思って…)」で始まるのですが、ここは源氏物語の「浮舟」をイメージしたことが究者の間での共通認識だそうです。浮舟とは源氏物語の最終版に登場する女性で、2人の貴族男性の求愛に苦しみ入水自殺を図りました。助けられて出家した浮舟に男性は再び会いに行くのですが、浮舟は断ります。その理由が書かれないまま源氏物語は終わります。読者はなぜなのかという疑問を抱いたまま物語が幕を引くため、余計に浮舟への関心が高まっていたのではないでしょうか。その浮舟は孝標女が少女時代を過ごした東国で育ったと源氏物語で描かれるので、「あづま路は…」と書き出せば、物語への興味が強い貴族の読者たちは源氏物語の浮舟を思い起こし、さらに更級日記は物語にあこがれる女性を主人公に設定しているので、源氏物語の延長上にある物語と読み進めることを狙った可能性があるということです。孝標女は自分の歴史を浮舟を利用して物語として世の中に提示したのかもしれません。
 更級日記というタイトルにつながった和歌「月もい出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ねきつらん(月も出ていない真っ暗闇の夜、年老いた私のところに何が面白くて訪ねてきたのですか)」など、捨てられた老婆のように自分をみなす終末部も、この冒頭の記述とのコントラストを鮮明にするための仕掛けかもしれません。晩年の孝標女は実際は物語への憧れを失っておらず東国での少女時代のように物語の力を信じていたからこそ、このコントラストを表現できたのではないか。自分の晩年は不遇と物語を終わらせた方が、読者には面白いと思わせるテクニックだった可能性があります。
 和田さんはほかにも浮舟や藤原頼道を思い起こさせる更級日記の記述について論考していますが、では孝標女はなぜ更級日記を物語として書いたのか。和田さんは、父の道長に負けず劣らず文芸の世界を構築しようとした頼通の期待こたえようとしたためと指摘しています。ならば孝標女は物語作家であり、現代風にいえば更級日記は日記の形を借りた私小説になります。
 私は「更級」という地名がタイトルに選ばれた理由について想像を膨らませました。紫式部が詠んだ老いを嘆く歌「としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな」をシリーズ70で紹介しましたが、この歌は紫式部が源氏物語とは別にしたためた「紫式部日記」に載っています。源氏物語作者の紫式部の晩年の心のあり様が「日記」の中にあることを踏まえ、孝標女は「紫式部日記」を超える物語を「紫式部日記」にちなんで「更級日記」というタイトルにしたかもしれない…。和田さんの本の中では、孝標女がタイトルに「更級」を選んだほかの理由もうかがえる論考があり、それについては後の号で紹介します。
 写真左上は現代に伝わる一番古い、鎌倉時代に書き写された更級日記。毎日新聞社発行の「皇室の至宝11 御物 書跡Ⅱ」(宮内庁協力、平成4年発行)から複写しました。小倉百人一首の選者でもある藤原定家が書写したもので江戸時代に天皇家に伝わり、現在は宮内庁が保管しています(シリーズ45参照)。A3サイズで印刷すると、実寸(タテ16・4㌢、横14・5㌢)になります。年月を経てかなり色が変っていますが、もともと表紙は古代紫色地の鳥の子紙で、上部は金銀泥描、箔押し、砂子散らしによる雲霞模様。下部は銀泥で水流などを描いたものです。
 右の写真は藤原頼通が晩年に建立した平等院(京都府宇治市)に伝わる頼通の座像。更級日記と孝標女については以下の号もご参照ください。1、16、31、40、41、45、47、59、60、66、67、68、69、70、71、73、144、151、152。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。