勉強の広場だった「山の神」、冠着大学

文・千曲市仙石区の金井信夫さん、さらしなの里友の会だより23号=2010年秋=から

金井・鎌研ぎsamuneiru 春の雪解けを待ちかねてのフキノトウに始まり、ゼンマイ、ワラビ、山ウド。盆近くになると、桔梗、オミナエシ、ワレモコウなど秋の七草が取れ、盆花として仏壇に上げたものです。八月末ごろからは、秋の山菜取りが楽しみでした。アケビ、山ブドウなど。特に松茸は親兄弟にもある場所は教えないくらい秘密にしていました。山菜・草刈り薪取りと宝の山でした。
 終戦直後の楽しい思い出は坊城平でのキャンプです。今のような設備があるわけではなく、手作りでした。草、ボヤを切って、平らなところに萱を敷き、テントを張りました。今のように軽いものではなく布でできた重いものでした。苦労して坊城平に担ぎあげました。荒縄や藤ツルなどを使い完成させました。夜は藪蚊に悩まされましたが、それでも楽しい一夜を過ごすことができたことを今でも忘れません。
 水は、水の湧きそうな場所に穴を掘って炊事用、飲み水、洗面用に使いました。そんな水を飲んでも腹をこわしたり、気持ちの悪くなった人はいませんでした。みな丈夫な身体にできていました。
 当時は指導者として青年団の人が四、五人手伝っていただいた記憶があります。みんな貧しかったが楽しかった。長年続いた更級小の坊城平でのキャンプも今年が最後と聞きました。時代の流れで仕方がないとはいえ、残念に思います。
 冠着山の思い出はなんといっても、山の行き帰りに一息入れた山の神です。砂防ダムができ景観が変わってしまいましたが、石のごろごろした川で鎌を研いだり顔を洗ったり、広場では大人の世間話を聞いたり、いろいろなことを教えてもらう勉強の場でもありました。今は人影もなく松の大木と祠だけが昔の面影を残しています。祠の屋根の部分には深く刻んだ線がありますが、あれは山仕事で傷んだ鎌の刃先をここでも研いだ跡です(写真)。
 今は車が通る林道ができ、昔の山道は藪になってしまっています。でも、山の神の上方には「おば岳」「ウトウ(鵜頭?)」「三ケ月ごうろ」「地味王」「観音峠」など命名の由来に興味があるポイントがいくつもあります。坊城平までの行程で一番の難所と思われた「中尾根」の下の小さな川には山椒魚も住んでいました(山椒どじょうとも言っていた)。藪の中で今でも生息しているかなあ。
 三ケ月ごうろも屏風岩も樹木などで覆われあまり見えなくなりました。冠着山が美しい山に蘇ってほしいと思います。石川啄木の詩に「故郷の山に向かいていうことなし。故郷の山はありがたきかな」とあります。私たちにとって冠着山はそんな山なのかもしれません。