2つのブランド地名「科野」「さらしな」-長野県千曲市

 信州千曲市には、長野県の通称「信濃の国」のもとになった「科野(しなの)」と、古代から都人のあこがれで、真っ白なさらしなそばの名前にもなった「さらしな」という、二つの歴史と由緒がある地名が残っています。市域の中央を流れる千曲川をはさみ、東側と西側のエリアがそれに該当します。千曲市は2016年、住民には誇りを持って住み続け、来訪者にはその素晴らしさを心身で感じてもらうため、市域の価値を再発見しようと新しい観光ビジョンをつくりました。それは「古より特別の想いを寄せる憧れの地~科野さらしなの里千曲」。千曲市は「科野」と「さらしなの里」という二つの高いブランド価値がある地名とエリアで成り立っていることを宣言したものです。(画像をクリックすると、観光ビジョンの詳しい説明ページに移動します)

 科野にある長野県最大古墳

 現在の長野県域は、漢字が中国からもたらされたはじめ、都の記録(古事記)に「科野」という漢字で紹介されています。「科野」は当時の支配者の一族の呼び名で、日本の友好国だった朝鮮半島の百済に人材を送ったり、馬の生産を大々的にやり、都と密接な関係がありました。都の人々も盛んに当地との間を往来したでしょう。その科野は日本初の法律体系である大宝律令の制定(701年)のころには、「信濃」と書かれるようになります。「信濃」という漢字は、名前は縁起の良い字を使うようにという都からの命令により、「しなの(科野)」の音だけを残して新たにつくられたものです。

 千曲市を通過する上信越高速道建設の際の発掘調査によって、古事記に記された「科野」は現在の善光寺平を中心にした国と考えた方がよくなりました。当時の役人が命令などを書き込んで回覧した細長い板(木簡)が多数、発見されたのですが、その中に信濃を治める中心の役所の国府が、現在の千曲市屋代(旧埴科郡)にあったと考えた方がいい証拠があったのです。古墳時代の東日本最大といわれる森将軍塚古墳のある千曲市屋代一帯が「科野の里」と呼ばれてきたのはこのことが関係しています。

 月の都さらしな

 一方の「さらしな」です。さらしなは大宝律令制定のときにすでにあった「更級郡(さらしなぐん)」が始まりです。この地名は平安時代には、天皇家につかえていた女性が書いた日記文学「更級日記」というタイトルになりました。この「更級」は千曲市を流れる千曲川の西側域の「さらしな(旧級更級郡」のことです。日記のなかに年老いた自分の姿を姨捨山と重ねて詠んだ歌があることからのタイトルなのですが、実は「さらしなの里」のことは何も書かれていません。それなのにタイトルを「更級日記」にしたのは、「さらしな」と聞けば、それは信濃の国の更級郡、そこの姨捨山と連想できるほど都では有名だった証拠です。

 その「さらしな」は月が美しい「月の都」としても有名でした。月の光をダイナミックに反射させる千曲川の流れ、月の出を情緒豊かに演出する鏡台山など、月を美しく見せる舞台装置がそろっていたのです。月の名所はたくさんありますが、「月の都」を名乗る場所はめったになく、江戸時代には俳人の松尾芭蕉がさらしなの月をみるためだけに当地にやってきて「更科紀行」という紀行文を書いています。更級郡は2005年、大岡村が長野市と合併し、消滅しましたが、地名が持つ高いブランド価値を地域の教育・文化・経済活動に生かそうと活動している住民団体(さらしなルネサンス)もあります。

 親子地名、きょうだい地名

「科野」と「さらしな」。この二つの地名は親子関係にあるようです。さらしなは「科野」の「しな」をもとにできた地名と考えられるのです。千曲川のように地域を大きく二つに分ける川があると、川の向こう側とこちら側を区別するのはうなづけます。千曲川の両側を支配していたのが「科野」だったので、西側をさらしな(更級)、東側を埴科(はにしな、千曲川の東側は旧埴科郡)と名付けた可能性があります。「さらしな」と「はにしな」はきょうだい地名です。一番最初の科野の国府があったかもしれない屋代周辺にはシナのつく地名が集中しています。倉科(くらしな)保科(ほしな)波閇科(はべしな)信級(のぶしな)…。

 こうした日本の始まりや美意識もたどることができる「科野」「さらしなの里」という二つの地名のあるところで、千曲市の産物や温泉、文化、芸術、歴史などを紹介するさまざまなイベントが展開されています。

主な参考文献
「長野県史・通史編第1巻」
「更埴市誌」
「長野県屋代遺跡群出土木簡」(長野県埋蔵文化財センター)
「美しさらしな」(さらしなルネサンス)
「地名遺産さらしな」(大谷善邦)