沓掛喜久男さんの更級郡の短歌

 市となりて更級郡は消えにけり芭蕉の辻の黄色の点滅
 この短歌は昨年暮れの朝日新聞歌壇(2019年12月22日付)に載ったもの。坂城町のJR坂城駅近くの書店主沓掛喜久男さんの作品だ。大岡村が長野市となって更級郡がなくなったことに思いを馳せている。
 芭蕉の辻というのは、坂城町網掛(旧更級郡)の十六夜観月堂(いざよいかんげつどう)に至る交差路のこと。このお堂が、更科紀行の旅で松尾芭蕉が立ち寄った場所であることを踏まえた表現だ。交差路の信号機は車が速度を上げすぎないよう常に黄色を点滅させている。
 沓掛さんは通りすぎるとき、黄色の点滅の刺激を受け、今では人もあまり立ち寄ることのない十六夜観月堂と消滅した更級郡が重なったのだろう。沓掛さんのお住まいの地は埴科郡だが、沓掛さんもやはり更級郡の消滅が、15年たっても残念なのだ。更級郡は沓掛さんによって「消えにけり」と詠まれたことで、逆に読者の記憶から引き出され、聖性が加味されていく。この歌いぶりは、捨てられた老女が毎年中秋の晩に舞いに現われ、舞った後は消えて姨捨山になっていく能の「姨捨」を思い起こさせる。意に反して表舞台から去った老女も更級郡も繰り返し歌に詠まれ、多くの人の口の端にのることで、慰められていく。
 沓掛さんは1933年生まれ。古稀(70歳)に短歌を作り始めたといい、今では朝日新聞だけでなく信濃毎日新聞の歌壇でも入選の常連。2016年には「永久とは七十なるかぐらつきし憲法九条祈るごと読む」の作品で第32回朝日歌壇賞を受賞。2018年には歌集「山に向く書架」を出版した。身の回りのことや世の中のことを、書店主、戦争体験者、ドイツに孫がいる祖父…といったさまざまな眼差しで詠んでおり、考えさせられることも多い。いくつか引かせていただく。

 古稀過ぎて作り始めし歌なればすべて辞世よ芽吹きの季節
 しぐれたる日の店番は書架のかげ即席麺を掻きこみている
 ゲルマンの婿と地酒を酌み交わす三晩泊まりて孫連れ帰る
 グラマンとB29の爆音を聴き分けゐたり七十年前
 売れるのは健康・利殖の本ばかり文芸の徒と言へない本屋
 この通り真正面に冠着山またの名姨捨秋日和なる

 十六夜観月堂については更級への旅65号をご覧ください。