日本遺産に認定された「月の都」について、千曲商工会議所の機関誌「清流」元旦号に、文章を書く機会を得ました。広報担当の方から、「月の都」の理由について長くてもいいからという寄稿依頼があり、ありがたくお引き受けしました。さらしなの月のすごさ、美しさを都に運んだ古代の道と、古今和歌集に載った歌「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」の二つが、「月の都」となる主要理由だと思います。「清流」の誌面はここをクリックしてご覧ください。
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「月の都」の始まり、これから 日本遺産認定2年
千曲市が「月の都」として日本遺産に認定され今年の6月で2年になります。「月の名所」は全国各地にありますが、「月の都」を自他ともに認めるところはなかなかありません。「芸術の都パリ」という言葉があるように、都というのはその分野の中心的なまちのことで、奥行きのある大きな空間のことです。ですから「月の都」は、「月が特別に美しいまち」ということになります。「月の都」は、「田毎の月」や「姨捨の棚田」にとどまらない奥深い地域の魅力をいう言葉です。どうして「月が特別に美しいまち」とみなされるようなったのか。それは都人たちが通る道が冠着山の西北の峠を越えてあったことが大きな理由だと思います。千曲川、鏡台山など月を美しく見せる舞台装置は、この峠などを行き来する人たちが標高の高いところから眺めることによって発見され、その舞台のある「さらしな」という地名を詠んだ「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌が、「月の都」と自称しても文句を言われない理由になったと考えていいのではと思っています。
さらしなの月を都に運んだ東山道の支道
昔から道は人間や物だけでなく情報を運んできました。今も上信越道と中央道という2本の高速道路が走るように千曲市一帯には、時代を通して国にとって重要な道が走っていました。千年以上前の奈良、平安時代も同じで、現在の中央道のルート沿いに、当時の国道である「東山道(とうさんどう)の支道」が通っていました。東山道とは、朝廷が都と現在の長野県を含む東日本一帯をつなぐためにつくった国道のことで、長野県には岐阜県の中津川市から阿智村の神坂(みさか)峠を越えて入り、飯田、伊那と北上し、松本北部で軽井沢の方に向かい、群馬県に抜けていきました。
松本北部では、枝の道が北に走り、日本海側の地域とつながっており、その道が冠着山の西北の峠(古峠)を越えていました。東山道の本道から枝分かれした道なので「東山道の支道」と呼ばれます。いま鉄道が通っている冠着トンネルと高速道路が走る一本松トンネルの上あたりです。
都と日本海をつなぐこの道は、朝廷にとっても、まだ十分に支配下にならない東の地域を治めるうえで大変重要な道で、この道を通って都の役人など知識層の人たちが行き来していました。峠越えは旅をするときの大事なポイントで、来し方行く末などを眺め、考えたはずです。古峠に立ったときは、目の前にあるさらしなの里(千曲市)や千曲川が目に入ってきたはずです。月が夜空にあることもあったでしょう。峠を越えるときや峠に上っていくときには冠着山が見えます。
こうした光景を見た人たちがそれぞれに感想を抱き、情報を交換するなどしてさらしなの里の月の美しさは都で話題になり、全国に広がっていったと考えられます。
歌から始まった「月の都」
その広がりに重要な役割を果たしたのが、10世紀初め、天皇の命令で編まれた古今和歌集に載る「わが心慰めかねつさらしな姨捨山にてる月を見て」の歌です。姨捨山は冠着山のこと。さらしなの里の姨捨山の夜空にある美しい月を見ていても、わたしの心はどうにも慰めることはできない、という意味です。この歌は、約50年後の950年ごろには、現在の私たちが知る姨捨説話の起源となる大和物語を誕生させ、室町時代には世界文化遺産になっている能の物語の謡曲「姨捨」を世阿弥をして作らせました。江戸時代には松尾芭蕉が月を見るためだけにさらしなの里に来て「俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友」の俳句を詠みました。
歴史に名を遺した人たちをどうしてそんなに魅了したのか。その理由を知るうえで押さえておきたいのは、むかしから人間が共通して抱える永遠の悲しみや苦しみは、老いや死だということです。老いや死の悲しみや苦しみからは、簡単には逃れることができません。いや逃れることができないと言い切っていいと思います。そのことを57577の短歌のリズムに載せて、だれでも唱えることができる美しい調べにしたのがこの歌です。歌というのは声に出して唱えるもので、歌謡曲やポップスなど悲しいときや苦しいときに口ずさんでいる歌があるでしょう。それと同じで、むかしの人は「わが心慰めかねつ」のこの歌を唱えながら、慰めきれない老いや死について思いをめぐらせてきました。
この歌の表現で、特に人々が魅力的に感じたひとつが「慰めかねつ」という表現です。いまでも「○○しかねる」というように使います。「しかねる」というのは、どうしても事情や理由があってできないということで、「できない」というより身の悶え感があります。美しいことで有名なさらしなの里の姨捨山にてる月を見れば、悲しみや苦しみは慰められるのではと思うかもしれませんが、「それほど美しい月を見ても慰めきれない」と歌ったところに、この歌の力があります。
悲しいときや苦しいときにうたう歌も、歌っているときは慰められても、歌い終われば、また…ということはないでしょうか。本当に切実な悲しみや苦しみはそんなに簡単にないものにはできません。でも歌っているときはなにか慰められているような感じがします。そういう人間の切実な心の真実をこの歌はうたっています。
もう一つ、この歌が美しい理由は、すがすがしくて躍動感のある「さらしな」という地名の響きと、老いや死と直結するおどろおどろしく悲しい響きの「姨捨」という言葉の対立と統合です。きもちわるいけどかわいいという感じを「きもかわいい」ということがあります。反対のイメージの言葉をうまく組み合わせると、人間はおもしろさや美しさを感じます。
こうした理由から、人間が抱える共通の悲しみや苦しみを表現するのにふさわしい場所はさらしなの里だ、とみなされるようになったと考えらます。さらしなルネサンスのポスターはこうしたイメージをもとにデザインしました。
紀貫之も知っていたさらしなの月
この歌はだれが詠んだのかわかりません。ただ、どういう経緯でできたのかは推測できます。歌は古今和歌集の成立前にはできていたはずなので、詠まれたのは9世紀の800年代、朝廷が東北地方の蝦夷らを支配下に治める「東国経営」によってさらしなの情報が都に伝わったことが背景にあると考えられます。その情報を伝える役割を果たしたのが冒頭に紹介した「東山道の支道」と考えられます。
この歌はどこかに書きつけられていたのでしょう。古今和歌集編者の紀貫之(土佐日記の作者)は編集方針としてまえがきに、「万葉集に載っていない歌を集めた」と書いています。「わが心慰めかねつ」の歌は、紀貫之にとっても触発力があったらしく、彼にもさらしなの月の特別感を詠んだ歌があります。
月影はあかず見るともさらしなの山のふもとに長居すな君
これは信濃に行く人に紀貫之が贈った歌で、さらしなの美しい月にまどわされて居ついてしまうことのないようにと詠んでいます。「わが心慰めかねつ」の歌を思い起こさせる紀貫之のこの歌によって、さらしなの里の月の美しさはいっそう都人のあこがれの対象になっていった可能性があります。
さらしなの地名力
以上、月の都となるときに重要な役割を果たした「東山道の支道」と「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌のことを紹介しました。こうした歴史の厚みの上にわたしたちは今、「月の都」を語っています。日本遺産の大きな目的である観光振興に「月の都」をどう生かすかは、なかなか難しいですが、千曲市が「月の都」として日本遺産になるうえで、大きな働きをしたのが、「さらしな」という地名だったことをあらためておさえておきたいと思います。さらしなの地名の力を私が最初に意識したのは、中学の授業で平安時代の日記文学に更級日記があると知ったときです。私の出た更級小学校(現千曲市更級地区、旧更級村)と名前が同じであることにびっくりしました。
地元のことが更級日記に書かれているのか実際に読みました。まったく出てきません。がっかりしたけれど、研究者の間では冠着山(別名姨捨山)のある更級郡をイメージし、題名にしたのは定説。日記にはまったく出てこないのに、「更級」というタイトルを付けたのは、逆にすごいことではないかと気づきました。「更級といえばだれもがあの信濃の国の更級だとわかるはず」という思いが、千年前の都の日記作者にあったことになるからです。
日本遺産は文化庁の事業なので、地域にある文化財を物語で編集、構成するというところに特徴があります。立ち寄れる文化財(もしくは文化財に相当)であることが必要なのはわかりますが、「月の都」に構成された29の文化財の大半は、かつて更級郡(さらしなの里)だったところなので、さらしなの里にあることを強調すれば、もっと文化財は魅力的なものになるはずです。さらしなは「地名遺産」です。目には見えないけれど、後世にずっと残していく価値のある地名です。
「千曲市がなぜ月の都なのか」というテーマで、千曲市内の小中学校に出前授業を行っています。そのときは必ず、さらしなの里に「月の都」とみなされる歴史文化があったことを紹介しています。「月の都」の理由が子どもたちに伝わると思うからです。