さらしなの地名成立の経緯、古代の人にとってのさらしなのしらべ 月の都深掘り連続講座①

日本遺産に認定された長野県千曲市の「月の都」の魅力を深掘りしてお話をする機会を得ました。全3回で、第1回目を7月10日、千曲市八幡の長楽寺で行いました。パワーポイントを使ってお話した内容をここにまとめました。「さらしな」という地名が成立した経緯や「さらしな」という地名の調べに反応した古代の人の心について掘り下げています。次をクリックするとPDFでもご覧になれます。http://www.sarashinado.com/wp/wp-content/uploads/587111dd2af0b1bbdcc11e54917a7181-1.pdf

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さらしな・おばすて歴史と文学講座2022
(月の都の魅力深掘り連続講座)
①月を美しく演出したさらしなの里、そのメカニズム

こんにちは。さらしな堂、さらしなルネサンスの大谷善邦です。

わたしの生まれは姨捨山の別名を持つ冠着山のふもと、旧更級村の入口にあたるところです。自分の出た小学校の名前が、平安時代の日記文学「更級日記」の名前と同じ名前の小学校、更級小学校であるのはなぜか、冠着山が姨捨山とも呼ばれるのはなぜなのか。それを調べてもう20年以上になります。新聞記者の仕事をしながら、瓦版「更級への旅」など自分のホームページで、分かったことを書いて発表してきました。

2年前に千曲市が「月の都」として日本遺産に認定されましたが、さらしなルネサンスでは8年前、2014年の会の発足時から「月の都千年文化再発見の里づくり」をスローガンに活動してきています。この「月の都千年文化」というのは、江戸時代に盛んに耕作されて現代にいたる姨捨の棚田よりずっと前の飛鳥、奈良、平安時代から当地が都の人のあこがれとなり、日本人の精神文化、文芸に大きな影響を与えてきたことをいうフレーズです。

さらしな・おばすて歴史と文学講座2022というメインタイトルにわたしは自分流に「月の都の魅力深掘り連続講座」というタブタイトルをつけました。日本遺産としての「月の都」の魅力を3回にわたって掘り下げます。

第1回のテーマは、月を美しく演出したさらしなの里、そのメカニズム。第2回はこの長楽寺の境内にある面影塚に刻まれている松尾芭蕉の俤句「俤や姨ひとりなく月の友」の読み解き。この俤句の成立は当地がさらしなと呼ばれる里であったことと深い関係があります。第3回は「和歌と俳句でたどる月の都の歴史」です。

さてきょうの第1回目は、千曲市が月の都として日本遺産になったのは、さらしなと呼ばれる里があったからというお話です。さらしなという地名がどのように成立したのか、古代の人にとってのさらしなというしらべはどのようなものだったのかについても掘り下げます。

さらしなの里は千曲川の下流に向かって千曲市の西側、このあいだまで更級郡に所属していた地域の呼び名です。この更級郡は構成していた町や村が長野市などと合併し、2005年に消滅しました。しかし、さらしなの里は1000年以上前から京の都人たちの大きなあこがれの地で、さらしなという地名には超一級のブランド力があるんです。ちなにみ白いさらしなそばの「さらしな」も、さらしなの里の「さらしな」の地名を取ったものです。

こうしたさらしな歴史文化を知ると、月の都としての千曲市の魅力がパワーアップします。

月を特別に美しく見せる舞台

まずは、月の都としての千曲市の風景を代表する景色からです。これは写真家の増田恵(めぐむ)さんが9月、中秋の夜、長楽寺の巨大な姨岩の上あたりから撮影したものです。中央の奥に光っているのが月で、鏡台山という山のてっぺんからこれから現れようとしています。

鏡台山とは漢字が示すように、鏡が置かれた台のことで、むかしは女性がお化粧をするときによく使われたものです。わたしの母も昔、鏡台を使っていました。

この山の鏡台という名前は、月を鏡に見立て、山の姿が月が現れるお芝居の舞台のようなので、「鏡台山」という名前が付けられたと考えられます。

手前には姨捨の棚田、その向こうに千曲川、その奥には鏡台山をはじめ山の峰が屏風のように立ち上がり、まさしく月がこれから夜空を上がっていく舞台です。この月を今わの際にお迎えにくる阿弥陀如来に見立てる人たちもいました。

こうした奥行きのある大きな空間の光景が全国からやってくる人たちにさらしなの里が、月の名所にとどまらない立体的な時空間を意味する「月の都」というイメージを強く抱かせました。

都とつながっていた東山道の支道

千曲市が月の都になった理由をもうすこしていねいに見ていきます。グーグルアースから、千曲市を上空から見た姿を切り出しました。方角は上が東、下が西。JR姨捨駅から空に上がると見える風景と思ってください。ここが千曲市の中央を流れる千曲川。西側の堤防は、車が通れない歩行者と自転車の専用道です。千曲川は自転車の親子のように右から左に流れ、左端で大きく、北へ流れを変えています。

いくつかの地名を紹介します。まずは、1000年以上前から月が美しい場所としてしられたきた「さらしなの里」。千曲川の西側の地域、かつて更級郡だったところです。

次はさらしなの里のシンボルである冠着山。 冠着山は1000年前の平安時代、姨捨山とも呼ばれ、全国に有名になった山です。それからみなさんもよく知っている「姨捨の棚田」。

そして、さきほど紹介した鏡台山。千曲市では、月は東側のこの鏡台山から現れ、千曲川の上空を渡って、冠着山を照らしながら、「姨捨の棚田」のある西側に沈んでいきます。

そしてきょうぜひ覚えて帰っていただきたいのが東山道の支道という都とつながっていた道のことです。

東山道というのは、平安時代の国道で、その国道から別れた国道がさらしなの里を通って日本海に通じていました。平安時代の国道は、全国各地に及んでおり、東山道はまだ都より東側、蝦夷と呼ばれた人たちの一大勢力圏だったところを都の支配下に収めるために大変重要な道でした。京都の人たちがさらしなの月に大きな関心を持つようになったのは、京都とさらしなの里がつながるこの道が冠着山の西側を通っていたことが大きく影響しています。東山道の支道のルートは現在の中央高速道とほぼ同じルートです。

都の人たちは最初に紹介したさらしなの里の月の風景を旅のみやげ話として持ち帰り、「こんな美しい月が見られた」と自慢したでしょう。今のように簡単には旅ができなかった時代なので、その話を聞いた都の人たちは想像を膨らませたでしょう。そうして、さらしなの月の美しさは京都から全国に広がっていきました。

都の人たちがさらしなの里に入るとき、出ていくときに通った古峠の写真をごらんいただきます。

都人のみやげ話に

都人が通っていた冠着山の西側の峠、古峠から見た風景です。真ん中の少し左側が中央高速道。その下にJR篠ノ井線の線路が走っています。 篠ノ井線の右側、この集落が御麓です。この谷間の奥に広がるのが千曲市の中心部、長楽寺はこの尾根筋の向こう側、そこに姨捨の棚田が広がっています。

都の人たちはこんな景色を見て、さらしな里に入ったり、都へ帰っていきました。最初に紹介したさらしなの里の月の風景を旅のみやげ話として持ち帰り、「こんな美しい月が見られた」と自慢したでしょう。今のように簡単には旅ができなかった時代なので、その話を聞いた都の人たちは想像を膨らませたでしょう。そうして、さらしなの月の美しさは京都から全国に広がっていきました。

そして、こういう情報が積み重なってできた歌が次の歌です。

さらしなを全国区にした和歌

わがこころ慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月を見て

この画像は、さらしなルネサンスが8年前に発足したときのに作ったポスターです。この歌は今から1000年前の平安時代、天皇の命令で編まれた「古今和歌集」に載っている歌です。905年には完成したということなので、さらしなの里は遅くとも800年代には都と人たちのあこがれになっていたことになります。

わたしは自分でも短歌を作ります。作るようになったきっかけは、都人のさらしなへのあこがれの内容を知る一番の手がかりが、都人たちがつくった和歌だったことです。観点別に一つ一つノートに書き写しているうちに、自分でも作るようになりました。コスモスという短歌の結社にも入りました。新聞短歌を毎週読むのも楽しみにしています。人の歌も読むのが好きです。そういう立場からこの歌の私流の解釈です。

歌の意味は難しくないですよね。さらしなの里の姨捨山にかかる月を見ていても私のこころはどうにも慰めることができない。この姨捨山というのは冠着山のことです。人が生きていくときにはいろいろな苦しいこと、思うようにならないことがあります。親きょうだい、親しい人、妻や夫、子どもの死、正しいことが通らないこと。そうした苦しみを慰めようと、美しいさらしなの里の月を見ていてもいてもなぐさめることはできないという意味です。

この歌によって月が格別に美しいところが信濃の国のさらしなの里だということが認識されるようになりました。その理由は「慰めかねつ」という表現にもありました。「かねつ」というのは今でも使う「しかねる」の意味です。しかねるということばには何か身の悶え感があります。「慰めかねつ」と表現する方が、自分の意志や力ではどうすることもできないことがあることが読み手に伝わりやすくなります。ふつう美しいものを見たら慰められると考えるものですが、実際はなかなかそうではいかないものです。特に老いや死のかなしみは一瞬慰められてもまた悲しみとして現れます。決して慰められることはない、慰めることはできないという人間の心の真実を57577の歌のリズムで表現したことが多くの人の心を深く打ち、読み継がれることになったのです。

もうひとつ、さらしなの里を都人のあこがれにすることになった表現上のポイントについてです。上句の「さらしなや」の「や」という言葉です。この「や」は詠嘆や感動を表現する助詞としてよく使われますが、この歌ではさらしなの里という舞台を読み手の面前に出現させる働きをしています。月の美しい里として「さらしな」という地名を強調しているんです。

そして、もうひとつ当地でもあまり知られていない歌ですが、その古今和歌集を編纂した紀貫之の次の歌も、さらしなの里を都人のあこがれにする大きな働きをしたのではないかとわたしは思っています。紀貫之は学校で必ず習う土佐日記を書いた人としても有名です。

紀貫之とさらしな

月影はあかず見るともさらしなの山のふもとに長居すな君

この歌も意味は分かりやすいですよね。月が美しいからといってさらしなの里の姨捨山のふもとにずっと居てはいけない。この歌は紀貫之が詠んだ歌を集めた「貫之集」の中に載る歌で、歌の前に、信濃に行く知り合いに贈る歌と説明が添えられています。当時は都から地方に役人として派遣される貴族階級の人たちがたくさんいました。平安時代のはじめには、信濃の国といえば、さらしなの里、姨捨山が都の人たち間で連想されていたことがわかります。

研究者の間では、この歌は、先ほどの「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌を踏まえて、紀貫之が詠んだものとされています。古今和歌集に載せる歌をたくさんの人の歌の中から選び抜いた編集者ですから、当然、「わが心慰めかねつ」の歌は知っていたのですが、この「わが心の慰めかねつさらしな姨捨山に照る月をみて」の歌の後に作ったというところが重要です。つまり、紀貫之は「わが心慰めかねつ」の歌に触発されて「月影はあかず見るともさらしなの山のふもとに長居すな君」を詠んだのです。

もう一つ注目すべきなのは、信濃に行く知り合いの人に、美しい月が見られる場所として「さらしなの山のふもと」と詠んでいる点です。どうして「姨捨山のふもと」としなかったのか。紀貫之が本当にそう意図したかはっきりしたことは分かりませんが、「姨捨山のふもと」より「さらしなの山のふもと」の方が、歌のしらべが美しくなると思った可能性があります。知り合いの人は遠い場所に何日もかけて命の危険もとしながら向かいます。到着したからといって、知り合いがほとんどいない信濃の国でうまくやっていけるかわかりません。無事安全健康ですごして帰ってきてほしいと願い気持ちが「姨捨山」よりも「さらしなの山」というすがすがしい調べの言葉を選ばせたかもしれません。加えて、さらしなの山のふもとの山といえば、イコール姨捨山のことだとだれもが分かっているという前提があり、それほど信濃の国のさらしなの里、そして姨捨山は都の人たちの間で有名だったことになります。

さらしなの月をライバル視した秀吉

次は「わが心慰めかねつさらしな姨捨山に照る月をみて」の和歌に影響を受けた、のちの言葉の芸術家や有名人が詠んださらしなの里の和歌や俳句です。

はるかなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里

平安時代末に生まれ鎌倉時代の初めを生きた公家で百人一首を作った藤原定家の歌です。わたしが調べた限り、さらしなの里を月の都とのセットで詠んだ最初の和歌です。次の歌「さらしなは心のうちの里なれば月見るごとに身を宿すかな」の作者藤原信実という人物はあまり知られていませんが、藤原定家と同じ時代をを生きた公家の歌人です。藤原信実は都で月をみるたびにさらしな里にいる心地がすると詠んでいます。「さらしなはこころのうちの里」という表現に、当時の都人たちのさらしなへのあこがれの強さ、大きさがわかります。

次は今から約450年前の戦国時代、天下を取った豊臣秀吉の和歌です。「さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夕ぐれ」。雄島というのはこれも月が美しい宮城県の松島ことで、伏見江は秀吉が築いたお城の下に広がっていた大きな湖、巨椋池(おぐらいけ)のことです。秀吉はさらしなの里に来たことがありませんが、その月の美しさを知っており、自分の城から眺めらる湖とその空に現われた月の美しさは、月の都のさらしなに勝るとも劣らないと自慢しています。

松尾芭蕉も、さらしなの里の月をみるためだけにやってきたことがあります。のちに「更科紀行」という文章にまとめる旅です。そのときにつくった俳句がこれです。「俤や姨ひとりなく月の友」。長楽寺の境内にある面影塚に刻まれている俳句です。この句については、中秋の日の9月10日、この「月の都の魅力深掘り講座」の2回目で、たっぷり読み解きをしますので、またおいでください。

そしてみなさんにもおなじみの長野県の俳人、小林一茶の俳句。「一夜さは我さらしなよさらしなよ」。この句は、中秋のころに、さらしなの里の姨捨にやってきて、お月見をすることができた一茶の感激を詠んだものです。すごいですよね、さらしなよさらしなよそれだけのことですが、そのくらいさらしなという地名が当時の人たちのあこがれだったんです。

さらしなや姨捨を詠んだ和歌や俳句は、こうした歴史上の有名人に限らず、本当にたくさんあります。どうしてそんなに歌にしたかったのか、その理由を別の観点からいうと、さらしなや姨捨の里が若返りの里だったからです。短歌や俳句に限らず、カラオケとかで歌をうたったりしたときのことを思いだしてください。うたったときにすがすがしさと躍動感を覚えませんか。すがすがしく躍動したということはつまり、血の巡りがよくなったということです。血の巡りがよくなるということは、からだと心の若返り。つまさらしな姨捨に来たり、来れない人は想像したりして、みんな若返ったのです。血のめぐりをよくして心とからだを元気にする場としてさらしなの里が選ばれたんです。

科野からできた地名「さらしな」

さて、ではその都人たちのおおきなあこがれになる「さらしな」という地名はどのようにできたのか。きょうの本題に入っていきます。

長野県の歴史的な呼び名「信濃」と「さらしな」は、「しな」という音をともに持っていますが、関係があるんです。現在の長野県域となる地域は、漢字が中国から入り記録に残されるようになったはじめ、日本最古の歴史書でもある古事記には、「科野」という漢字で紹介されています。天皇が各地の豪族を束ねて中央集権国家をつくる過程で現在の県市町村に発展する行政機構を設け、更級郡と埴科郡も成立したのですが、この二つの呼び名は「科野」をもとに誕生した可能性があるのです。上信越高速自動車が当地に建設された際、大がかりな発掘調査が行われたのですが、古事記に記された「科野」は現在の善光寺平を中心にした国と考えた方がよくなりました。当時の役人が命令などを書き込んで回覧した細長い板(木簡)が多数、発見され、その中に国司が政務を執った国府が現在の千曲市屋代(旧埴科郡)にあったと考えた方がいい証拠がありました。

屋代一帯が科野と呼ばれており、千曲川の西側を更級郡とし、東側を埴科郡とした可能性があるんです。ここまでは更埴市史や上信越高速自動車道の発掘報告書に書いてあることを整理したことです。ここからは私の考えです。科野一帯を二つに分けるために両郡の名前が新たに決められたか、すでに地元ではそうした呼び名があってそれを採用したのか、どちらが先か分かりませんが、二つの呼び名が生まれた背景を想像してみます。

更級郡は千曲川の西に広がり、山並みはなだらかです。東(埴科郡)の山並みから上った太陽の日差しを受け、朝日が差し込む場所になります。明るさ新しさを強調したくなる気持ちがあって、「さら」というすがすがしく躍動感のある日本語を使いたくなったのでしょうか。

一方の埴科です。埴には黄土色の粘土の意味があります。とすると、焼き物用の土がとれたことからの名前でしょうか。役人が行政情報を墨で書いて回覧した木簡が発掘された場所のすぐ南側の山頂には科野を治めた豪族の王墓との説がある長野県最大の「森将軍塚古墳」があります。ここは粘土で作られた埴輪で囲まれていました。お墓の聖域を囲むように並べられた埴輪は神聖で権威を象徴するもの、だから埴科?。

千曲川のように地域を大きく二つに分ける川がある以上、川の向こう側とこちら側を区別するのはうなづけます。その際に科野のシナを核にしたさらしな、はにしなを正式な郡名にした可能性があります。初期の科野国府があったかもしれない屋代周辺にはシナのつく地名が集中しています。倉科、保科、波閇科、信級…。篠ノ井も含め、「科野」から派生した地名かもしれません。

さらしなは再生イメージ音の集合体

もうすこしさらしなの地名力を深掘りします。日本語の調べ、音色の観点からです。

信濃毎日新聞(2012年10月19日付夕刊)に載った「アマテラスは月神だった」という見出しにわくわくし、記事に登場する古代研究家の三浦茂久さんの著書「古代日本の月信仰と再生思想」を手に入れ、読みました。驚きました。「さらしな」という地名自体が月を象徴する音色の言葉だった可能性があります。

三浦さんは本の中で万葉集や日本書紀、古事記といった日本の最古級の文献に載る歌、つまり古代語を吟味した結果、「さ」「さら」「しな」は満ち欠けを繰り返す新生、再生の象徴である月をイメージした言葉だとつきとめたことを紹介しています。万葉集や日本書紀、古事記にのる歌は、奈良時代以前の古代の人たちの心のメカニズムも表現した日本語の調べです。

さて三浦さんの説ですが、特に「サ」や「サラ」の音の調べに注目しています。「さなえ(さ苗)」「さわらび(さ蕨)」「さくら」などの接頭音にあるように、サの音は再び新しく生まれる再生、新生(神聖)などの意味を持ち、月の満ち欠けの現象と重ねられて用いられる音でした。わらびもさなえもさくらも、毎年春になると新たな命の躍動を感じさせる神聖な植物です。「さらさら」「さらす(晒す)」などの言葉にもそれと関連するイメージが抱かれました。「シナ」も、「篠突く雨(シノつくあめ)」「しなやか」といった言葉に残るように、繰り返し、再生の意味が込められて使われた音で、月の意味で「シナ」が使われたとする用例も三浦さんは紹介しています。

「シナ」が月の意味で使われたも考えられる例の一つは、日本書紀に載る聖徳太子の歌「しなてるや片岡山に飯(いひ)に飢えて伏せる旅人あわれ親なし」。片岡山は奈良にある山とされ、食事が取れず倒れている旅人を哀れんでいる歌ですが、この初句のしなてるです。しなてるは辞書には「片」にかかる枕詞という説明があるだけで、意味の深追いがなされていませんが、これを月が照っていると解釈すると歌の意味もぐっと味わいがまします。月がの光が注ぐ片岡山の山中で倒れている旅人、情景がぐっと迫ってきます。

もう一つ、古事記に載る応神天皇の歌です。「鳰鳥(みほどり)の潜(かづ) き息づきしなだゆふ楽浪道(ささなみじ) をすくすくと我がいませばや…」。鳰鳥(みほどり)というのはかいつぶりという鳥のことで、応神天皇が琵琶湖で船にのって移動しているときの感慨を詠んだものです。この中の「しなだゆふ楽浪道」の「しなだゆふ」も辞書では「楽浪道」にかかる枕詞と説明されているだけですが、この「しな」も月と解釈すれば「月の光が湖面に映り波が浮き沈みしている情景があざやかに浮かんできます。

つまり、「さらしな」は「さら」と「しな」という再生イメージ音の組み合わせとなり、再生の象徴である月そのものをイメージさせる地名でもあったことになるのです。

「さらしな」という地名は月が美しいからその名ができたのか。当地に先にあって結果的に月を象徴する地名として世に知れわたったのか。どちらが先か分かりませんが、結果的に「月の都」にぴったりの名前だったことになります。万葉集や日本書紀、古事記の後の時代の平安時代の人たちも、和歌はまだ詠み上げられて広まる時代だったので、SARASHINAの音を耳にしたとき、月のイメージを抱く感性があったかもしれません。それがさらしな・姨捨を世に知らしめた最初の和歌「わが心慰めかねつさらしな姨捨山に照る月をみて」の創作につながったのかもしれません。

最後にあらまてまとめです。 さらしなという地名の里は月を特別に美しく見せる格好の舞台だったんです。

料理だって器がすてきだとずっとおいしく見えます。味を感じるのは実際は舌ではなく、脳みそです。すてきな色や形、デザインの器ならおいしい料理はもっとおいしくなります。器は食材や調理したものをおいしく美しく見せる舞台です。単なる月の名所にとどまらない月の都となったのは、月をもすばりイメージさせるしらべの「さらしな」という地名の舞台があったからなんです。

(了)