芭蕉句「俤や姨ひとりなく月の友」 亡き母の面影をとじ込めた可能性 月の都深掘り講座②

 以下は中秋9月10日、千曲市八幡の長楽寺で行った「月の都の魅力深掘り講座」第2回の内容です。テーマは、松尾芭蕉の「俤や姨ひとりなく月の友」、通称「俤句」と呼ばれている句の読み解きです。今から334年前の中秋、元号でいうと貞享5年(1688)の中秋、のちに「更科紀行」という紀行文にまとめる旅で、芭蕉が長楽寺を訪ねたときの心の動きを詠んだものです。長楽寺に建つ人間の背丈を超える大きな句碑「面影塚」に刻まれています。建てられたのは1769年、芭蕉がさらしなの里に来て100年近くたったあとで、当時は芭蕉が切り開いた芸術としての俳句の機運が下火になっており、信濃にもう一度、言葉の芸術としての俳句を広めようという蕉風復興のシンボル句として、この俤句が選び出されました。芭蕉の俤句も、第1回講座でお話しした古今和歌集に載る「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の延長線上で詠まれた句です。芭蕉がこの句をどんな思いで詠んだのか。芭蕉はさらしなの中秋の名月と冠着山(姨捨山)の景色に浸りながら、亡き母親の面影をこの句にとじこめた可能性があります。(大谷善邦)

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 わたしも俳句や短歌を作り始めて20年になります。今、作っているのは短歌が中心ですが、今日のお話をするに当たってまず前提にするのは、俳句や短歌は発表した後は、読者のものだということです。作者が生きている間は作者が歌を作った経緯を語ったり、文章にしたりすることもあるでしょうが、そうしたものを残さずに亡くなってしまった人の歌は特に読者の解釈にゆだねられる運命にあります。芭蕉のこの俳句もその一つです。わたしがこれからお話しする芭蕉の思いが本当かどうかは、とどのつまり分かりません。どう読むと味わいが深まるのか、深い味わい方の一つとして受け止めていただければと思います。

 とはいえ、勝手な読み解き方ではだめなので、そう解釈する根拠を示しながらお話したいと思います。俤句の場合、作った経緯がうかがえる俳文「更科姨捨月之弁」があります。これについては、のちほどお示ししますが、まずは、この句に関する研究者の読み解きをお示しします。そのうえで、私の読み解きをするという展開にします。

姨=老婆+母 ダブルイメージ なく→泣く+亡く(無く)

 最初に、岩波書店発行の日本古典文学大系「芭蕉句集」の中でなされている句の読み方です。

「姨捨山に月を見ていると、捨てられてひとりで泣いている老婆の面影がうかんでくる。その面影を今宵の友として月をながめようの意。」

 次は、姨捨文学についての研究第一人者の矢羽勝幸さんが1983年に書いた著書「姨捨・いしぶみ考」の中で示している記述。

 「元禄元年(1688)、門人越人をともなって姨捨をたずねた折りの作品である。初案は、俤は姥ひとり泣月の友 であった。名にしおう姨捨山に来てみると、その昔姨を捨てたといわれるようにいかにもあわれ深い趣が漂っている。月のみを友として泣いている姨の姿が今も眼前によみがえってくることだ。下五句は滝沢貞夫氏によると謡曲「姨捨」の一節「月の友人まとひして」を利用したものらしい。採り入れた内容が豊富なために句解がわかれ、難解な句になっている。謡曲や「大和物語」などのイメージが眼前の景色と重なって幻想的な、奥の深い作品だ。」

 これらの記述には書いてありませんが、いずれも古今和歌集に載る「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて」の歌の影響を前提としています。矢羽さんの記述の中に登場する世阿弥が作った謡曲「姨捨」も、平安時代に作られた「大和物語」も、それぞれこの「わが心慰めかねつ」の歌をテーマにした物語です。ですから、芭蕉の俤句は「わが心慰めかねつ」の歌の延長線上に詠まれたことは研究者の間では共通認識となっています。

 これまで私が調べた限りでは、研究者が行ってきた解釈は、結句の「月の友」に関するものが中心です。ここにお示しした日本古典文学大系の解釈では「月の友」は「友だちとしての月」という意味になりますが、研究者の間では姨自体を月の友、つまり月にとっての友人と解釈する人がいたり、詠み手の芭蕉自身が月の友人ということではないかという人もいます。芭蕉が詳しい解説を残していないので、確かなことは分かりません。これが俤句の解釈は難しいと言われる一番の理由です。わたしはこの部分は深入りしません。わたしが深入りするのは。中句の「なく」についてです。「更科紀行」の最終稿では「なく」とひらがなになっているところが、初めは「泣く」となっていたことにわたしは関心があります。

 赤羽学さんの本「芭蕉の更科紀行の研究」によると、推敲の過程で幾度か「泣く」と漢字になったり「なく」とひらがなになっていることが分かり、最終的には「なく」とひらがになったということに、わたしは着目しました。赤羽さんは現在は松本市になっている長野県の旧和田村生まれで、岡山大学教授を務めた方です。赤羽さんの本には俤句も載る芭蕉の直筆の写真や、「更科紀行」の江戸時代の出版物など一次資料をたくさん掲載、分析を加えています。赤羽さんの本の記述をもとに、表記の変遷をスライドにしました。

 最初は「泣く」と漢字だったものが、なぜ最終的に「なく」とひらがなになったのでしょうか。

 私は、この句の「姨」には、年老いた老婆と、自分の母親のイメージが重なっていると思います。年表をご覧ください。 芭蕉の母親が亡くなったのは、更科への旅の5年前(天和3年)で、まだその喪失感は薄れていなかったと思います。 そのことも含め、今日の講座に関係する芭蕉にまつわる出来事をざあっと見ておきましょう。

 芭蕉の家は地侍という下級武士の家柄で、その暮らしは農民に近かったそうです。母親は芭蕉が十二歳のときに夫を失い、芭蕉は女手で育てられました。

 芭蕉の生誕地は三重県伊賀上野。家は芭蕉の兄が継ぎました。芭蕉は伊賀上野一帯の領主の一族である藤堂家に奉公に出て、藤堂家で俳諧の精進を続けていたのですが、29歳で、江戸に出ます。俳諧は和歌の延長上に生まれた言葉遊びです。五七五の発句の後に別の人が七七のリズムの言葉を付ける連句から生まれました。ただ、まだ今のように五七五の俳句としては独立したものになっていませんでした。

 芭蕉は五七五の芸術性を開花させるべく江戸に出たわけですが、故郷に残してきた母親は、芭蕉が江戸の深川などでたくたんの門人を従えるほどに力をつけた11年後、芭蕉が40歳のときに亡くなります。残念ながら芭蕉は死に目に会えませんでした。

 伊賀上野への帰郷を果たしたのは、その翌年の秋、後に「野ざらし紀行」としてまとめる旅ででした。「野ざらし紀行」は1684年、芭蕉が俳諧で身を立てようと生地の三重県伊賀上野から江戸に出てから初めて遠方に足を運んだ吟行の旅です。「野ざらしを心に風のしむ身かな」という冒頭の句が示すように、俳諧という芸術を完成させるためには、死んで肉が腐ってしゃれこうべなってもがんばるという覚悟の旅でした。それで、「野ざらし紀行」というタイトルを付けたのです。

 ひょっとしたら、この旅に自分の人生をかけようとしたきっかけは、母親の死だったかもしれません。なお、芭蕉の代表句「古池やかわず飛び込む水の音」の句も野ざらし紀行の旅を終えて江戸に戻った1686年に作っています。

 帰郷を果たした際に、母親の遺髪を手にして詠んだ句です。

   手に取らば消えんぞあつき秋の霜 

 秋も深まって寒さが増してきたころだったと思いますが、芭蕉の内側には悔いや感謝、申し訳なさなど本当にさまざまな感情が去来して熱い涙を流しように読めます。それなのに母親の髪はすっかり白くなっていて、さらさらと手から消えてしまうのではないかと思うくらいにはかない白髪だったのでしょう。

 この句からは「慟哭」という言葉が浮かんできます。俳句としては字余りですが、自分の思いを表現するにはこの形の句が必要だったということでしょうか。特にこの「」という言葉が母の死から、「さらしな・姨捨」への旅を貫く心のキーワードではないかと思います。

 芭蕉がさらしなの里に来たのは、母の死から5年後、野ざらし紀行の旅から4年後。その芭蕉はさらしなでの月見をして江戸に戻った後に、短い文章に俳句を添えた「更科姨捨月之弁」という俳文を書くのですが、これはさらしなへの旅で感じた感慨のエッセンスのような内容で、その中では強烈に「」を強調する文言が出てきます。スライドに記したこの「更科姨捨月之弁」のこの表記が芭蕉の決定稿とされています。

 あるひは.しらら吹上と聞くにうちさそはれて、ことし姨捨の月みんことしきりなりければ、八月十一日美濃の国をたち、道遠く日数少なければ、夜に出て暮に草枕す。思ふに違わず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡とい里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじう高くもあらず、角々しき岩なども見えず、ただ哀れ深き山の姿なり。慰めかねしと伝へけむも理り知られて、そぞろにかなしきに、何ゆへにか老ひたる人を捨てたらむと思ふに、いとど落ちそひければ

   俤や姨ひとりなく月の友  芭蕉
   十六夜もまださらしなの郡哉 同

 ことしは、姨捨の月がどうしても見たくなって8月11日、中秋までは4日しかない、とてもハードなスケジュールで岐阜県を旅立った、なんとか予定通り到着して月に照らされた姨捨山を眺めると、古今和歌集で「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と詠んだ古人の気持ちがよくうかがわれた。どうしてこんなこんなところに老婆を捨てたのだろうか、それを思うと涙が頬を伝ってしょうがない、そして、その上で「俤や姨ひとりなく月の友」の句を作ったと表明しているのです  母親の遺髪を手にしてこぼした「涙」と、さらしな・姨捨で月見して流したこの「涙」の熱さが、つながっているように思えないでしょうか。

 冒頭の矢羽勝幸さんの解説で、俤句が能の「姨捨」の影響を受けているとの指摘がありましたが、芭蕉は、姨捨山として知られていた冠着山の頂上を見ながら「姨捨」に登場する老婆の姿を思い描いた可能性があります。能の「姨捨」の物語は中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るため姨捨山に急いでやってきてきたところから始まります。謡曲としてうたわれる「姨捨」は難しい言い回しや、複雑な抑揚があって、聞いていてもなかなか意味が分かりづらいのですが、物語を文字にした謡本を見ると、少しわかりやすくなります。冒頭の部分を読んでみましょう。

 月の名近き秋なれや。月の名近き秋なれや。姨捨山を尋ねんかやうに候者は都方に住まひつかまつる者にて候。われ未だ更級の月を見ず候ほどに、この秋思いたち姨捨山へと急ぎ候。このほどのしばし旅居の仮枕、しばし旅居の仮枕。また立ち出ずる中宿の明かし暮らして行くほどにここぞ名に負う更級や、姨捨山につきにけり。さてもわれ姨捨山に来てみれば、嶺平らかにして万里の空も隔てなく千里に隈なき月の夜。さこそと思ひやられて候。いかさまこの所に休らひ今宵の月を眺めばやと思い候…… 

 都人が冠着山の頂上に登って、その頂上が平らでそこからは周囲がよくみえ、ここから見える夜の中秋の月はさぞかしすごいのだろうと想像している場面です。この後、都人は頂上で更級の里に住む女性に出会って、物語が本格的に始まります。

この女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねると、先に紹介した古今和歌集の「わが心…」の和歌を持ち出し、「私の立っているこの場所です」と教えます。この後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明かし、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も姿を消します。

 繰り返しになりますが、芭蕉がさらしなの里に到着したのは中秋旧暦の8月15日の夜。芭蕉の母は実際に山に捨てられたわけではありませんが、世話になった母を故郷に置いたまま江戸に上り、11年も会わずにいたことからすれば、心のうちでは捨てたと後悔していたかもしれません。ですから、この謡曲に登場する老婆を母に重ねて思い描いたとしても不思議ではありません。世阿弥も芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。世阿弥は1363年ごろに生を受け、芭蕉にとって世阿弥は自分より300年近く前の故郷の偉人ですから、芭蕉も世阿弥のこと、世阿弥が作った「姨捨」という謡曲を当然、知っていたでしょう。

 ですから、俤句の「なく」には捨てられて月の光を浴びながら一人泣いている老婆と、すでに他界してあの世にいる年老いた母の二つのイメージが重なり、つまり、「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められている―芭蕉が本当にそのように意図したかどうかは分かりませんが、そのように読んだ方がこの句の味わいは増します。

心ゆくまで嘆けたさらしな姨捨

 ところで、なぜこの俤句が蕉風復興のシンボル的な句として選ばれたのかということについてです。レジュメ2の「心ゆくまで嘆けたさらしな姨捨」です

 日本の古典文学の基調が「嘆き」という感情表現だったことと関係しています。倫理学が専門の東京大学名誉教授でさらしなルネサンスの顧問もお引き受けいただいている竹内整一さんの「〈かなしみ〉と日本人」(日本放送出版協会)という本に詳しい解説があります。自分なりに解釈すると、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて」の和歌に盛り込まれている「慰めかねつ」にその嘆きが濃縮しています。1回目で「慰めかねつ」の表現について触れましたが、もう少し深めます。

 竹内さんによると、この「慰めかねつ」の「かねつ」という言葉は、「かなしい」という言葉と同じ根を持つそうで、「かなしい」という言葉は「…かねる」から派生し、何事かをなそうとするのだけれど力が及ばず、どうしようもなく切ないという感情を意味していたということです。「かなしい」は漢字にすると、「哀しい」「愛しい」とも書かれ、複雑で自分の力や意志ではどうしようもできないときに感じる感情を表現する言葉でした。

 「かねつ」「かなしい」という言葉を盛り込んだ和歌の中で、「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」ほど、全体が嘆きの調べを持っている歌は少ないようです。

 なぜ、年老いた母親を山に捨てたのか、でもそうしないと子孫をつないでいけない事情も分かる、姨捨山の月を見ていては。いろいろ考えても、どんな事情があるにせよ、気持ちは慰めようがない…。ここで大事なのは、「さらしな」や「姨捨」「月」を素材に嘆きのこの歌を作った作者、またこの歌を読んだ人たちは、だからといって深い悲しみのどん底に落ちっぱなしだったというわけではなく、いっときであるにせよ癒されたということです。

 歌を作ったり、歌を読んだりすることによって心の安定を得ていたと思われます。嘆きはぼやきと違い、どうしようもない気持ちを他者に届けようとする意思が強い感情です。

 能の舞台も、多くが嘆きの物語です。恨みを嘆きに昇華させることで、幽玄美と言われる芸術になりました。さらしな・姨捨を詠み込めば、だれかは分からないけど、必ずだれか、しかも多数のだれかとつながれるという願いがあったと思います。能の「姨捨」はその代表作です。

 日本人が伝統的に受け継いできたそうした嘆きの感情を、芭蕉もさらしなの姨捨山で味わい、楽しんだ可能性があります。大岩の姨石の上で、亡き母や「わが心慰めかねつ」の和歌、故郷の先輩偉人である能の大成者、世阿弥のことも思い出しながら、心ゆくまで嘆くことができたかもしれません。

 そこまで徹底して嘆けたのは、美しい月があったからです。お月さんがいれば独りではないという感覚は、街頭やテレビが暮らしに登場する前までは日本人に普通にありました。電気がない時代は、月の明かりがわが身を包み込んでくれました。「月影」という言葉は月の光のことを言いますが、なぜ光なのに影なのか。夜、月あかりを浴びて歩いていると、明かりが自分の体に回り込んで、包まれているような感じを受けることがあり、その時は光は影である表現した方がぴったりきます。月の明かりを浴びていると独りではないという感覚を強く感じる場所、かなしい境遇であっても決して自分は独りではないことを確認として、更級・姨捨が選び出されたと考えられます。難しいとされる俤句の「月の友」の表現もこうした月と人間の関係から生まれた可能性があります。

 「俤句」は母親孝行もできずに母をなくした後悔をずっと引きずっていた芭蕉だから作ることができた句であるかもしれません。

 ちなみに「日本語源大辞典」(小学館)によると、「嘆く」と「泣く」は語源が同じという説も載っています。泣くという感情表現も貴重です。泣いて嘆く場があって、はじめて次のステップにつながることができます。芭蕉は当地で心ゆくまで泣き、嘆くことができたから心機一転、「奥の細道」に旅立つことができたと言っては言い過ぎでしょうか。奥の細道への旅は更科紀行の翌年。この年の元旦に芭蕉は「元日は田毎の日こそ恋しけれ」という、更科への旅を強烈に思いださせる句を詠んでおり、更科への旅が奥の細道への旅の覚悟をうながす一つの要因にもなっていたのではないかと想像させます。

俤句のその後

 レジュメ3の「俤句のその後」です。面影塚という巨大な句碑が長楽寺に建てられたことについてです。矢羽勝幸さんの「姨捨・いしぶみ考」の書かれていることを、要約します。

 まず、大きさ。高さ215㌢、幅54㌢、奥行き39㌢。俤句は「芭蕉翁面影塚」と彫られた石の正面に向かって右側に刻まれています。芭蕉の句碑の中でも最大規模だそうです。「面影塚」の「塚」には道しるべという意味があります。

 建立された場所は、かつては人が一番往来する道沿いでした。写真をご覧ください。明治か大正時代の長楽寺を映した絵はがきです。手前に斜めに走るのが当時の道で、中央に長楽寺境内の入り口となる門、その左に私たちいる月見堂が見え、その間に建っているのが面影塚です。旅人でしょうか。荷を背負った人たちが道を登っています。当時はこの道がメーン道路でした。

 面影塚建立の中心役を担ったのは、加舎白雄。信州・上田藩士の次男として元文3年(1738)、江戸で生まれ(没年は1791年)、俳諧師、白井鳥酔に多くを学びました。当時、30歳代前半でした。

 矢羽さんによると、鳥酔には信濃出身者が多く師事しており、彼はかつて芭蕉が旅し、自分の俳諧に心を寄せる人々のいる信濃にかぎりないあこがれを抱いていました。鳥酔は日ごろ自分の信ずる蕉風俳諧を信濃に根づかせたいと念願しており、俳人としてのひらめきや覇気のある若者の白雄が信州ゆかりの人間であることから、白雄に白羽の矢を立てたのです。  師匠の期待を一身を受けた白雄は当地一帯で門人を率いるようになり、鳥酔の門人も含め、建碑を持ちかけたのでした。

 寄付を募り、明和6年(1769)の8月15日、面影塚を長楽寺に建立しました。現在、境内にたくさんある句碑の先駆けです。

 白雄は建碑に合わせ、建立の趣旨と師匠、鳥酔の門人らの句も盛り込んで「おもかげ集」を出版しました。そこには芭蕉が敬愛していた平安時代末の武者、木曽義仲の墓がある近江の義仲寺(滋賀県大津市)の土を取り寄せ、つぼに入れて塚の下に埋めたと書かれています。芭蕉が葬られた義仲寺の土をわざわざ持ってきたということは、そこが芭蕉のお墓でもある意味を込めたことになると、矢羽さんは指摘しています。白雄たちがこの碑に注いだ意気込みがうかがえます。

 碑の序幕は中秋の8月15日にあったのですが、そのときの様子は「おもかげ集」に盛り込まれたいくつかの句からうかがえます。

     月澄みや照りあふ塚のいや高き    柴雨

 確かに「面影塚」のそばに立つとその大きさに圧倒されます。一方で、柱のようにスリムです。月の明かりが碑面に反射してお互いが照らしあうような空間になっていたのでしょう。次は、

    碑や田毎の案山子こちらむけ  路芳

 棚田ごとにある案山子の中には反対側を向いているのもあったのでしょう。お祝いなんだからこっちを向いてよという気持ちでしょうか。最後は白雄自身の句です―

    碑おもてや月を後ろに拝みけり

 1年に1度しか見ることのできない名月にお尻を向けてもうしわけない。それでも月明かりを浴びた「芭蕉翁面影塚」と刻まれた碑の正面を見て、達成感に全身でひたっている白雄の様子が想像できます。

 千曲市戸倉、しなの鉄道戸倉駅前の坂井銘醸酒造コレクションには白雄に関係した資料がたくさん展示されています。右の写真の奥の肖像が白雄です。坂井銘醸は白雄が宿を得て、物心両面の支援を受けた坂井家のお宅で、文書資料がたくさん見つかりました。矢羽さんはそれなどをもとに研究の成果を「俳人白雄・人と作品」(信濃毎日新聞社)にまとめています。

 なお、1700年代前半は、戦国時代のような戦争はもうない時代になって100年余り。人口が増加し、農民にも貨幣経済が浸透し始め、新しい田んぼの開発をたくさん各地でやらなければならない時代でした。そうした流れの中で、現在の「姨捨の棚田」につながる斜面の開発も進みます。旧更埴市(現千曲市)がまとめた報告書「名勝『姨捨(田毎の月)』保存管理計画」によれば、1700年代に入ると、棚田が本格的にでき始め、面影塚が建立されたころにはかなり、棚田の風景が広がっていたと思われます。そうした景観の魅力の高まりも面影塚の建立の時期と重なっています。

 まとめです。

 芭蕉の俤句は、千曲市を「月の都」にした和歌「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて」に大きな刺激を受けて作った俳句です。「姨」には死に目に会えなかった母親を重ねた可能性もあります。「わが心慰めかねつ」の和歌で表出された日本人の歴史的感情の延長上に、芭蕉が母親不孝の嘆きを「俤句」に結晶させたと考えると、この句がぐっと身近になります。

 芭蕉の俤句への注目は、月の都としての千曲市、さらしなの里の価値をさらに高めます。

 次回3回目は、和歌と俳句といった文芸で描かれてきた「月の都」の歴史をひもときます。「月の都」の奥深い魅力を味わってみたいと思っています

 なお、俤句についての私の解釈は、漫画家・絵本作家のすずき大和さんと共有し、「まんが 松尾芭蕉の更科紀行」という単行本と「ばしょうさんとおばすてやまの月」という絵本を作りました。よろしければお求めください。