12号・「更級」姓への高包さんのこだわり

   「更級」という名字があるのをご存知でしょうか。1939年に発行された「更級郡埴科郡人名辞書」を開いていたら、更級さんという姓の方々がいたことを知りました。更級さんのご一族は今も長野市今里(旧更級郡今里村)にお住まいです。直系のご子孫である更級健一郎さんに手紙を差し上げたところ、一族の来歴に関する貴重な資料をお送りくださいました。
 篤志家
 
更級家は今里村で、もともとは村沢姓を名乗る「豪族」でした。江戸時代は文化五年(1808)、当時の当主である高包(たかかね)(さんが領主から「更級姓」を与えられたということです。
 江戸時代、武士以外は名字を公称することを許されていませんでした。実際は土地の特徴や歴史的な由緒から、農民や町人も私的には名乗っていたのですが、領主などにあてた公文書には姓がなく名しか記されていないのはそれが理由です。
  高包さんは、浅間山の噴火による降灰被害や善光寺平の一角を襲った大水の被害を私財を投じて援助したり、医術を勉強して薬を調合し病人を救うなどしたそうです。いわゆる篤志家と言っていいでしょう。藩政や地域住民への貢献度が高かったことから、領主もそれに対して士族と同様に「苗字帯刀」を許すことによって威徳を称えたようです。高包さんはその際、「更級」姓を望んだとみられます。
 高包さんはなぜ、「更級」という姓にこだわったのでしょうか。
 一人の人間は姓と名前によって過去の歴史と現在の中で一人の存在として規定されるとも言えます。現代のわれわれにはそんなことを意識させないくらい当たり前のことですが、高包さんが生まれる前、17世紀くらいまでは、個人という概念は希薄だったと思います。交通、移動の自由がなかった時代は、一族だけで完結する村があり、そこでは名字の必要はそれほどなかったでしょう。名前さえあればそれで識別できましたから。しかし、いくつかの出どころの違う一族が共存することになると、識別する必要が生まれます。
 高包さんのころは、物や人の往来が盛んになり、自分たちの出自を明確にしたい気持ちが全国的に高まったと思われます。そのとき、高包さんは「更級郡」を意識したのだと思います。
 古戦場、穀倉地帯
 今里地区は現在のJR川中島駅近くで、長野市と合併する直前は更級郡川中島町でした。犀川と千曲川の間に挟まれる平地が川中島と呼ばれ、この地はかつてすべて更級郡です。
 今から約450年前、高包さんが篤志家として活躍した時代からは約250年前の戦国時代は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信州の支配権をめぐって歴史的な合戦を繰り広げました。土着の村人たちにとってはたまらない戦争だったと思いますが、長期にわたって幾度もの戦いを繰り広げたことから、さまざまな逸話を残し、日本中に知られるようになりました。
 さらに古来、数多くの歌に詠まれ、歌枕となった「更級」という言葉。戦乱のなくなった江戸時代は、松尾芭蕉の来訪によって庶民にとっての観光スポットになっている。川中島は犀川、千曲川の流れが育んだ更級郡を代表する穀倉地帯。加えて日本の首都である江戸と善光寺をつなぐ北国街道も通っている…。
 こうした歴史、経済的な条件を考えれば、高包さんが「更級」姓を望んだのもうなずける気がします。
 鬼にも姓?
 幼いころに聞かせてもらった昔話に「大工と鬼六」というものがあります。鬼が川を渡らせないので、大工が困っていたところ、「俺さまの名前を当ててみろ。当てたら渡らせる」と鬼が言います。大工が鬼の正しい名前を呼ぶと鬼は消えてしまって無事渡れるようになったという内容です。
 この鬼の心理が長く不思議でしたが、長じていくうちに自分の名前を呼ばれることによって、精神的な安定がもたらされることがあることに気がつきました。幼少のころ、仲良くしたいと思っている人から、自分の名前を口にしてもらったときに感激した記憶がある人は多いのではないでしょうか。
 鬼六は姓ではなく名前のような感じですが、考えようによっては鬼が名字で六が名前とも言えます。実際、お話の中では、大工は鬼六という正しい名前を呼ぶまでは「赤鬼」「鬼七」という名前を発します。かつて「○○さんの奥さん」と呼ぶのは妻の人格無視と、論議になった時代もありました。それくらい一人の人間としての存在は、姓と名のセットによる支えが必要と言えないでしょうか。
 2千数百人の足跡
 更級健一郎さんからいただいた資料の中に、更級家の由緒について調べた方の講演録があります。この中で、この方は「家族を離れて個人無く、一族を離れて個人無く、社会を離れて個人無く、民族を離れて個人は無いと思うのは私一人だけの妄想でしょうか」と指摘しています。また「同じ先祖である私たちとは別系の村沢家の方々が現在もなお活躍している」とも述べています。
 冒頭の「更級郡埴科郡人名辞書」は信濃教育会更級埴科両部会が編集したもので、戦国時代から大正時代までに活躍した両郡の約二千数百人の足跡を一人一人について記しています。すべての国民が名字をもつことを事実上、義務づけた「名字必称令」が出たのが明治8年(1875)ですから、ここには名字を堂々と名乗れることの喜びを感じた人もたくさん含まれていると思われます。更級高包さんと同じように誇りに思っていたのではないでしょうか。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。