13号・明治のリーダー、塚田小右衛門さん

  市町村合併で、必ずと言っていいくらい論議になるのが、新しいまちの名前です。更級村(現千曲市)は明治の町村合併で誕生しました。旧村は羽尾、須坂、若宮の三つ、各村には現在の仙石、三島、芝原がそれぞれ含まれていました。だれもが自分の村の名に愛着があったと思われるのに、どうして全く新しい村名が可能になったのでしょうか。郷土史研究家の塚田哲男さんの論文「更級村命名の由来」をまず紹介します。
 わが意見を以って
 政府の町村合併の方針が公布された明治21年(1888)、羽尾、須坂、若宮の3カ村は、政府の中央集権化政策にしたがって連合村を形成し、羽尾村の塚田小右衛門(雅丈)さんが、連合戸長という代表者を務めていました。雅丈さんは前々から、「伝説に名高い真の姨捨山は冠着山である」との説を抱き、また三カ村が、全国各地の地域名を記した平安時代の和名抄に載る「更級の郷」に含まれると確信を持っていたので、新村名を「更級村」にしたいと各村に提案しました。
   当時は一番大きな村の名をとって名づけるのが大方の方法だったそうです。周辺ではたとえば、北隣の郡村、志川村、大池新田村、八幡村が合併しましたが、武水別神社のある八幡村が一番有力でした。南隣は、新山村、上山田村、力石村が合併し、上山田村となりました。
 羽尾村が3カ村の中で一番規模が大きかったので、新村名は「羽尾村」となっても不思議ではありませんでした。しかし、雅丈さんが公私にわたって書き残した「雅丈雑記」には「新村名は羽尾、仙石にては、苦情もこれ有り候とも、わが意見を以って更級村と改称する」とあり、新村名への雅丈さんの並々ならぬ決意がうかがえます。
 校名論議
 塚田哲男さんは論文で、その決意の背景として、小学校の名前を決めるときの村感情的なトラブルに触れています。町村合併に先立つ明治6年(1873)、長野県は各村に学校をつくる御触れを出しました。一つの村だけでは運営が難しいので若宮、須坂、羽尾は3カ村連合の学校を設立することになり、名前を「鼎立(ていりつ)学校」にしました。
 鼎(かなえ)は古代中国の殷の時代に神聖視されていた青銅祭器のことで、この器の脚が3本であって、3者がたがいに立つ、平等の立場を示す意として決められたようです。しかし、この校名は、その後、「所在地の名をもって校名とするべし」との通達で、明治19年、学校所在地は羽尾村なので、「羽尾学校」ということになりました。
 学校経費は応分の負担をしているのに、名前は「羽尾」ではという不満の声も若宮、須坂にはあったようです。 合併後に「更級小学校」として新たな校地を決めるときの寄付金などに非協力的な動きがあったのは、このときの感情的な問題が一つの原因のようにも感じると塚田さんは記しています。
 全村民の利益
 現代の市町村合併の話に戻ります。新しいまちの名前を、歴史を尊重せずに話題性を重視して決め、住民からも大きな批判が出ているなどと新聞をにぎわすことがよくあります。これを読んでいて、雅丈さんがなぜそれほど「更級」にこだわったのか、もっと知りたくなりました。
 当時の状況を考えると、うなずけるところがあります。いわゆる「冠着騒動」です。冠着山は江戸時代、羽尾、須坂、若宮に加え、千曲川東の対岸にある埴科郡千本柳・上徳間・内川の計6村の「入会山」で、村人は燃料や家畜のえさ、堆肥などになる薪や秣などを取りにいっていました。明治15年、それまでは松代藩の管理下にあったのが、民有地となり、冠着山の地元である羽尾村が所有権を主張したことから、ほかの5カ村と今で言えば最高裁判所まで争うことがありました。
  一審で勝った羽尾が二審で負け、さらに上告したものの不受理となって、明治19年、冠着山は六カ村の共有と決まります。しかし、対立はなかなか治まらず、羽尾と原告側の間では不穏な雰囲気が生まれ、警察が出動することもあったそうです。そうした事態になって間もない時期の合併なのに羽尾と須坂、若宮の3カ村がよくも一緒になれたと思います。
 長野県が3カ村合併の強力な行政指導をしたということも背景にあったでしょうが、私には、雅丈さんが過去の対立を乗り越え、ともに暮らしていくには、新しい村の名前で再出発するのが全村民の利益につながると考えたように思います。
 古来歌に詠まれてきた姨捨山は三カ村を抱く冠着山。古代の国道である東山道の支道が羽尾から須坂を経て善光寺方面に通じていた。後醍醐天皇の子息である宗良親王が滞在した可能性がある羽尾。若宮には佐良志奈神社がある―雅丈さんは「更級村」という当地の歴史や文化を反映させた名前ならば、村民の自尊心をくすぐることができると考えたのではないでしょうか。
 長老たちの署名
 明治22年(1889)の合併後、雅丈さんは更級村の初代村長となりました。「雅丈雑記」とは別に、雅丈さんが更級村となってからの公文書などを書き写した「雑誌」も残っており、その中には新村名を長野県に申請する前、3カ村の創意で更級村に改称することを決めたことを示す「答申書」があります。そこには各村の村会議員と長老たち計四十三人の名前が並び、その中には裁判で原告、被告双方の代表だった人の名前も含まれています。
 冠着山はもう、薪を燃料に使う入会山としての役割はなくなってしまいましたが、明治の裁判をたたかった6カ村は先の大戦後からは「財産区」という組織を設立し、山の植生、景観の保全や、木材の有効利用などを行っています。塚田哲男さんが現在、財産区の代表者である議長を務めています。

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