26号・3世代つなげる更級の縄文まつり

  アメリカと更級。この二つを比べると興味深いことがあります。アメリカという国にどんなイメージを持っていますか。世代によって違うでしょうが、民主主義、若者文化、旺盛な起業家精神といった先進的な側面の一方で、肥満、精神科医の多さ、貧富の較差、凶悪犯罪の頻発などでしょうか。
 小児の国
 なぜ、こうした国なのか参考になる本がありました。谷口陸男さんという方が書いた「アメリカの若者たち」(岩波新書)。アメリカ文学の中に登場する「若者」の姿を通して建国以来の精神風土を分析しています。
 コロンブスのいわゆる「アメリカ大陸発見」が1492年。以来、ヨーロッパ諸国の人たちが東海岸地域に移民し、1776年に独立宣言、故国とは一線を画した国づくりを始めます。日本は江戸時代の後期、旧更級村では更級斜子の考案者である塚田政子さん(お政さん)がまもなく生まれる(1798年)ころです。
   米国民の多くの家族は一カ所に定住することなく、子どもの世代は開拓民となって移動していきます。ゴールドラッシュに象徴されるように農民、商人、鉱山探索者などあらゆる職種が西海岸に向かいました。そもそも移民の多くは貧困層であったことから、故国の伝統的な価値観を否定した暮らしを送るようになりました。
  こうした国の成り立ちからして若さ、新しさが古いものよりももてはやされるアメリカの文化は当然と言えますが、谷口さんの指摘で面白いと思ったのはアメリカを「小児の心性」と表現しているところです。その意味はきかんきがない、単純と言ってもいいように思います。しつける人がいない国という感じでしょうか。子どものしつけ役というのは老人か親ですが、開拓時代、親の世代は生地とは違う場所に自分の拠点をつくるのに熱心ですから、老人が孫を育てるという文化が生まれにくかったと思います。
 つまり、アメリカは突っ走りや行き過ぎを制御する機能がとても弱い精神風土なのです。アメリカンドリームというのは意地悪くいえば何をやってもいいということで、その結果が現在のアメリカという国の病理にもつながっているように思います。
 縄文時代の「老人と孫」
 「更級」の地はこれと対極にあります。奈良時代に建部(たてべの)大垣(おおがき)が朝廷から親孝行を誉められたということが更級を姨捨伝説のメッカにしたことはシリーズの1回目で触れましたが、姨捨伝説は老人を大事にし、その知恵で国を救ったというものです。ただ、ここでは孫が登場しません。孫は実は縄文時代にすでに社会の一員になっていました。
 縄文研究の第一人者で国学院大学教授の小林達雄さんによると、縄文時代に初めて「老いの価値」が発見されました。縄文時代の前は「旧石器時代」と呼ばれ、ナウマン象が日本列島に生息した時代です。このころの人たちは肉や植物の食料を求めて移動していましたが、今から約1万2000年前、縄文時代になると、特定の場所に定住するようになります。このライフスタイルの変化が老人ならではの役割を生み出したといいます。
   移動生活では足腰が弱って置いてけぼりにされた老人ですが、定住することで、老人が積み重ねてきた暮らしの知恵が生かされる場ができたのです。幼な子の面倒は老人が見てくれるので若夫婦は仕事にも専念できます。老人の知恵と存在が豊かに生きていくために役立つようになりました。
 さらに大事なのは、老いの価値を尊重する考え方が縄文時代が続く1万年の間にじっくり醸成され、「文化的遺伝子」として日本人に刷り込まれたことだと小林さんは言います。時代は弥生に代わり現代まで2000年以上がたちましたが、その遺伝子は日本人に組み込まれ、自然の恵みの枯渇や住民同士のトラブルなど集団生活にありがちな問題の解決に、老人の知恵が途切れることなく生かされてきたということです。
 それを具体的に示してくれるのが民俗学者、故宮本常一さんの「忘れられた日本人」です。宮本さんは戦後から高度経済成長期にかけ全国を歩いて日本人の伝統的な暮らしを温かなまなざしで記録した研究者です。本の中で「長野県諏訪湖のほとり」の村で戦後聞いた農地解放についての寄り合いのエピソードを紹介しています。農地に対する愛着、こだわりが強い時代ですから、みんなが勝手なことを言い収拾がつきません。その中である老人がこう言ったそうです。
   「皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん、私の親も正しかった、祖父も正しかった、私の家の土地はすこしの不正もなしに手を入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら、申し出て下さい」
  この発言でそれまで強く自己主張していた人が口をつぐんでしまい、その後の寄り合いで話が行き詰ったときは「暗夜胸に手をおいて…」と切り出すと、たいてい解決の糸口が出されたということです。正論をただ突きつけるのではなく、当事者の改心や気づきを待つ。それが双方にとって、また集団にとって結果的にいい方向を導き出す―こうした議論の文化は縄文時代からの遺産と言っていいでしょう。
 一言、ありがとう
 さらしなの里古代体験パーク(現千曲市羽尾)で毎年行われている縄文まつりは縄文遺産を受け継いでいます。まつりの準備会議、同パークが畑で用意していたネギなどの食材が足りなくなり住民から提供してもらうことにしたのですが、謝礼の金額について結論が出ないでいました。するとそれまで黙っていた高島哲夫さん(2000年、74四歳で死去)が言いました。
 「それは一言、『ありがとう』って言えばいいだねえかい」
 高島さんのお宅は更級小学校に隣接しており、後で聞いたところ、戦後食糧難で食べ物がないころ、農作物を学校に無償で提供して子どもたちに食べさせたこともあったそうです。
 こうした知恵の言葉は、他人といやでも一緒に暮らしていかなくてはならない環境の中でも前向きに生きようとする伝統的な地域の住民ならではのものでしょう。羽尾地区在住の郷土史研究家、塚田哲男さんは縄文まつりを「老人から孫の世代までつながる3世代のまつり」と表現しています。
 ただ、アメリカばかりを批判する資格は日本にはありません。小林達雄さんは次のようにも言いました。「日本の経済成長は老人を暮らしから遠ざけて実現したとも言える。日本もアメリカと同じように老いの文化を消そうとしたことがあった」
 縄文的な暮らしを濃く受け継いでいるのが、高度経済成長期前までに青年時代を過ごした戦前生まれのお年寄りです。今の高齢社会は戦前派が中心ですから、高島さんが発した言葉のような「縄文の知恵」はまだ残っています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。