142号・「さらしな・姨捨」棚田の成り立ち解き明かす

 さらしな・姨捨地区に広がる棚田の地形はどのようにできたのか。信州大学名誉教授(地震学)の塚原弘昭さん(写真①)がその経緯を解き明かす講演会「姨捨・更級になぜ棚田ができたのか?~地質から見た要因」が2011年6月25日、千曲市羽尾(旧更級郡更級村) の明徳寺でありました。
 大池を流れていた旧千曲川
 塚原さんは、棚田一帯を含む千曲川の川西地域の地形を立体的に示す地図のスライドをたくさんスクリーンに投影し、イメージが湧きやすいように解説しました。②は、冠着山の南、筑北村方面の上空からの俯瞰図で、特に棚田地形の成り立ちの理解が進むスライドです。赤い枠線で囲まれている部分が「棚田地帯」です。ここの土は現在、自然体験施設がある大池の一帯が山だった約10万年前、北側に滑り下ったものが基層にあるそうです(北側からの俯瞰図が③)。
 もともと大池一帯は100万年前は川が流れる河原だったそうです。現在の千曲川のもとになる旧千曲川です。百万年前は千曲川の対岸(旧埴科郡)の方が大池より高い山で、千曲川は現在の三峰山との間を流れていました。ゴルフ場の千曲高原カントリークラブの敷地がそれに該当し、山の中なのに平地が多いのは川の流れがあったためなのです。三峰山の地形もこの川の浸食でできました。
 当時はまだ海抜が低かったのですが、約30万年前から大きな地殻変動が始まります。最近では江戸時代弘化期に起きた善光寺大地震が有名ですが、マグニチュード7・5規模の活断層地震が千年に一度起きるようになり、この地震のたびに更級郡側は隆起し、埴科郡側が沈下しました。その差は1回の地震で2〜3㍍。ボーリング調査などで、断層の高低差は約800㍍と分かっているのですが、1000年に一度の地震は30万年で300回起きたことになり、単純計算でその高低差は300回×2〜3㍍=600〜900㍍なので、善光寺平の地殻変動を裏付けています。もともと河床であったところが高地になるわけですから、崩れても不思議ではないように私は思いました。
 地滑りの後に弁天清水
 最初の大きな崩れが地滑りです。地滑りとは大きな土や岩の塊が徐々に下に移動することを言います。地滑りはえぐれるように起きることから上部には窪みができます。このため、ここに水がたまり、現在の大池の原型ができたということです。
 ただ、そのときはまだ、後に棚田となる地質・地形はできていません。滑った土の塊が新たに土石流となって北に流れ下り、現在の地質・地形ができあがりました。ボーリン調査で分かっているだけで1万3000年前と3000年前の2回、発生していますが、「もっと何回もいろいろな方向に起きているのは間違いない」と塚原さんは言います。④の写真は国の重要文化的景観に選定された棚田の上空写真ですが、尾根や窪地がいくつもあるので、土石流が幾度となく起きたことによる景観であることがよくうかがえます。 
 以上の地滑りと土石流が何をきっかけに起きたのか、まだ分かりませんが、大量の雨が土中に浸み込んだところに、善光寺大地震規模の地震がきっかけになったことも一つの可能性として考えられるそうです。現在、さらしな・姨捨地区の棚田を潤す水は大池の奥にある弁天清水と呼ばれる湧水ですが、この水も地滑りがきっかけで湧き始めたとみられるそうで、千曲高原カントリークラブをはじめとして付近一帯の山地に降った水がここに現れているわけです。潤沢な流量を鑑みると、この水が地滑りや土石流につながったのかもしれないと私は思いました。
 尾根筋の棚田の美
 塚原さんのお話の中で、もう一つ、特に印象に残ったのは、尾根筋にある棚田(⑤の写真)が最近よく、観光パンフレットなどで使われるのですが、その美しさの理由についての説明です。この尾根があることで、棚田の景観に奥行きが生まれます。しかし、そもそも山間地の尾根は土が薄いので耕作には適していないのだそうです。さらしな・姨捨の場合は、地滑りに加え、土石流にもよって尾根筋に大量の粘土と土が混じって厚く積もったため、尾根でも耕作ができるんだそうです。
 「おいしい」とよく言われる棚田の米の秘密は、この粘土と土の絶妙な入り混じりの結果でもあるそうです。土は樹木がある場所であれば、成長と枯死の繰り返しで自然とつくられます。粘土は火山の噴火によって積った軽石や火山灰でできています。粘土は土に比べ、表面がたくさんある微粒子で、表面がたくさんあるということはくっつける力があり、肥料を吸着させます。ただ植物の根の方が吸着力が強いので、粘土にくっついた肥料を存分に吸収して育つというわけです。三峰山は200〜500万年前は海底火山で、その噴火物が大池の辺りに積もり、それが粘土になったのだそうです。繰り返しになりますが、この火山活動によってできた粘土と植物活動によってできた土とがいい塩梅に混ざり、米作にとっては肥沃の土壌となったということが塚原さんのお話からよく分りました。
 講演会場の明徳寺は、塚原さんのご自宅です。塚原さんはお寺の住職でもあります。昨年、大学を退職しました。講演会は更級地区の住民グループ「更級人『風月の会』が主催しました。

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