141号・岩壁の道だった「木曽の桟」

 俳人、松尾芭蕉が当地の月を見るためにした旅の紀行文「更科紀行」の中には、全部で十三の句があります。美濃(岐阜県)を出発し木曽路をたどったときに詠んだ一つが次の句です。
  桟やいのちをからむつたかづら
 木曽路は江戸時代、江戸と京都をつなぐ大動脈、中山道の一部分ですが、中山道の別名でもあるくらいに旅人にとっては感慨深い街道として知られており、「木曽の桟」は、その言葉だけで全国区のフレーズです。シリーズ139で紹介した旅館「さらしなや」さんの女将、安藤みね子さんのお知り合いで木曽路について大変詳しい観光ガイドの蓑島悦子さんに現地(写真②、木曽郡上松町)をご案内いただき、この句が、どのような経緯でできあがったのかよく分りました(簑島さんは写真①の左、右が安藤さん)。
 たいまつの火で焼失
 昔、「かけはし」という言葉を初めて耳にしたとき、まずイメージしたのは「架けた橋」のことでした。普通、橋は水が流れる川の両岸に架けるものです。ただ、木曽は山深いところだし、谷あいを流れる木曽川の上に架かるから、余計に風情があるように見えたぐらいにしか思っていませんでした。違いました。もともとは崖につけた木の道が「かけはし(桟)」でした。
 蓑島さんが現在の桟のある場所に設けられた公園で、解説板に載る初代の桟の様子を描いた絵図を見せてくださいました。③の写真です。崖に丸太を立て、その上に板を並べ人が通れるようにした道です。構造は川に架ける木の橋と同じなので、それで「架け橋(桟)」と呼ばれたことになります。急斜面の土を崩して作れば普通に山道なのでしょうが、この一帯は、岩でできているので、木と板で組むことでしか道ができなかったのです。
 ただ、木は火に弱いです。案の定、江戸時代初期、この初代架け橋はたいまつの火の不始末で燃えてしまいました。芭蕉が更科紀行の旅をした1688年より前のことです。ですから、芭蕉がここを歩いたときには、丸太組みの橋ではなく、すでに石を下から積み上げた道になっていたことになります。
 ここで面白いのは、この街道を管理していた尾張藩は、この石垣を最初、④の絵図のように間を中空にし、木の橋を架けていたことです。外敵が来たときは、この橋を落として防御する工夫だったそうです。それがやがて木の橋ではなくすべて石垣が組まれるようになりました。もう一度②の写真をご覧ください。中央の石組みが左右と違うのが、あとから積み上げた証拠ではないかということです。芭蕉がここを通ったときは、まだ石垣に渡された木の橋だったようです。現在の道は車が通れるほどに幅が広くなりコンクリートの柱が支えていますが、芭蕉の時代は石垣の幅ぐらいしかなかったことになります。
 そこで冒頭に紹介した「桟やいのちをからむつたかづら」の句についてです。芭蕉の時代はすでに石垣の道で厳密には桟ではもうありません。しかし、芭蕉の頭にの中には、 つたで丸太や板を縛り組み上がった桟のイメージが強烈にあったのです。 
 今のように鉄筋やワイヤーはないし、稲わらでは弱いので、山の中にある蔓科の樹木をねじって丈夫にしロープ代わりにしたのです。桟の材料をつなぎとめている蔓科の植物のおかげで、旅をする人間の命もつながっているというようなイメージを詠んだのが「桟や…」の句となるわけです。芭蕉の時代はすでになかったのに、芭蕉がこの句を残したということは、それほどに初代の木曽の桟が全国に有名だったことの裏返しです。
 3つある桟句碑
 蓑島さんから桟の句碑にちなむ興味深いお話を聞きました。現在、桟句を刻んだ石の句碑は三つあるのですが、初代の句碑(写真⑤)はがけ崩れで土中に埋まってしまったのが発見されて現在は北に約7㌔離れた木曽町福島の津島神社の境内にあるというのです。
 初代の句碑は、江戸時代中期(元号だと宝暦、明和)、桟を訪れた美濃の俳人咄々坊が建てようとしましたが、果たせず亡くなってしまい、咄々坊の友人で木曽町福島の俳人が、それまで木碑であったものを石碑として建てたそうです。地中に埋もれていたこの初代の句碑が明治に発見されました。
 見つかったのに、別の地である木曽町福島にあるのは、崖くずれ後の文政12年(1829)、美濃の友左坊によって新しく二代目がすでに再建されていたことも関係しているようです。ただ、初代句碑への思いは強かったのか、昭和になって上松町の有志が古い句碑は桟にあってこそ意義があるとし拓本をとり、自然石に彫って建立したものがあります。桟句への木曽の人たちの愛着がうかがえます。
 二代目の句碑の隣には木曽を旅した近代俳句の創設者、正岡子規が紀行文「かけはしの記」の中に残した句歌の碑(写真⑥)もあります。句は「かけはしやあぶない処に山つつじ」「桟や水にととかず五月雨」、短歌は「むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしてそめけん木曽のかけはし」です。
 案内してくださった蓑島悦子さんは木曽路の観光スポットを手書きで克明に記録した案内図をつくった方で、それが木曽観光連盟の現在の中山道案内図「信州木曽路 中山道を歩く」につながっています。漫画家・絵本作家のすずき大和さんによる単行本「まんが松尾芭蕉の更科紀行」と絵本「ばしょうさんとおばすて山の月」の中でも桟が登場しています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。