146号・さらしなの里の「冠着十三仏」

  冠着山に十三仏という地名があるのをご存知でしょうか。「じゅうさんぶつ」あるいは「じゅうさんぼとけ」と読みます。死者の成仏を祈願する法要を初七日から三十三回忌まで13設定した風習にちなむ言葉で、それぞれの法要を主宰する菩薩が決まっています。仙石区から登った坊城平にこの地名があります。「坊」は山に籠っての修行によって仏様のように悟りを得ることを目的にした修験道の場であったことを示す地名とも言われています。冠着山の地名を記した明治の地図(下の写真)にも「十三仏」と記されているため江戸時代にはこの呼び名があったのは確実です。真上には冠着山を威容に見せる巨岩の児抱岩があります。更級人「風月の会」の有志5人は「児抱岩付近から崩落した岩を十三の仏さんに見立てたのではないか」と仮説を立て探しに行ってきました。ありました。かつて信仰の対象になっていたことを強く感じさせるすばらしい空間です。
 賽の河原も
 坊城平から冠着山への登山道や遊歩道をこれまで歩いていて、大きな岩が児抱岩付近からたくさん落ちただろうことは分かっていました。その岩を信仰の対象にしたのではと思いを深めたのが、右下の写真を見たときです。1966年12月発行の「とぐら公民館報」の記事です。児抱岩は親が子を抱くように見えることからその名前が付いたのですが、子の部分から岩が、当時頻発していた松代地震で落ちました。その大きさに驚きます。乗っているのは人間です。
 まずこの岩を見つけることにしました。以前に郷土史家の塚田哲男さん(故人)に「百畳敷」と呼ぶ巨岩の場所を教えてもらっていました。坊城平から上方に少し登った所にあり、現在はこの岩の上には樹木が茂っています。見上げると真上には児抱岩があるので、位置関係はぴったりです。ただ、現在の見え方と少し違うため「断定はできまないな」ということになりました。この写真を撮った人、記事を書いた人が見つかれば確認ができそうです。
 児抱岩の下はすり鉢状になった空間で、「百畳敷」はそのすり鉢の底が見渡せるところにあります。以前訪ねたときは樹木が生い茂っていて、底の部分が全く見えませんでした。今回の探索は、葉が落ち自た時期を狙ったので、枝の隙間から岩のようなものが見えていました。緑色に苔が蒸しているようです。「百畳敷」を下りて坊城平に向かって下ることにしました。
 急斜面です。児抱岩付近から崩落した岩が削り取った斜面であることが分かります。とするとこの下にはたくさんの岩が…期待を膨らませていくとありました。少し平らになった場所にいくつもの巨岩が。さらに比較的小さな岩が密集している所もあり、ここは「賽の河原だ」とみんなで言い合いました。「賽の河原」とは、親より先に死んだ子が歩くといわれる冥途の三途の川の河原のこと。子の部分の岩は親の岩より早く落ちてしまったことを考えると、ぴったりの見立てができる場所です。この日は雨模様で霧が巻いていて見通せなかった上空が晴れ始めました。その時に撮ったのが左上の写真です。真上には児抱岩。私たちは崩落した岩がたどるルート上にいました。
 世阿弥に情報提供?
 みんなで感想を披露し合いました。この巨岩群と児抱岩が作る空間と光景は修験者が修行場に使いたくなるのも分かる、登り道には仏さんに見立てたくなる岩の数々、急斜面の上にはさらに超巨岩(児抱岩)、登り切れば仏さん、つまり悟りが開けると期待しても不思議ではない…験道は平安時代から盛んになり、山で普通の人間とは違う修行を送ることで自身を高めていくという修業的な性格の強い信仰でした。ベースには仏教も関係しており、死んでからではなく「生きているうちに仏に」が特徴でした。メンバーの一人は50年前の小学生のころ、児抱岩下の岩場に鉄の鎖があり、それを握って登ったことがあると打ち明けました。今もよく修験道の実践者である山伏の人たちが鎖をつたいながら山行きをする姿がテレビなどで紹介されます。
 児抱岩まで登ることにしました。遊歩道ではなく、岩の崩落ルートをです。地震が頻発している現在なので、「もしも…」と心配になりましたが、灌木が斜面に生えているので、最近の崩落はなさそうです。児抱岩の直下はさすがに見た目で90度に近い感じのため、尾根筋を登りました。私は初めてでした。児抱岩の高さは20㍍近く。ほかにも大巨岩がいくつも並んでいます。ロッククライミングの人たちの訓練場にもなっているらしく、鎖をはめる鉄輪も打ち込まれています。ちょっと痛々しい感じです。「とぐら公民館報」の写真にある岩がもともとあった所も探しましたが、特定はできず、次回以降の課題です。親はいつまでもこのままの姿でと祈念しました。
 少し象像を膨らませました。能楽の「姨捨」は、冠着山の頂上の景観を踏まえて書かれたのではと思ってきたのですが今回の探索で、作者とされる世阿弥は、坊城平から児抱岩、冠着山頂という一体空間で修行した修験者から姨捨山の異名を持つ冠着山頂の情報を得ていたのではと思うようになりました(能樂「姨捨」についてはシリーズ32にも)。修験者は山をいくつも越え全国を歩いていたからです。冠着山の修験道については、ほとんど調査されていませんが、戸隠山(長野県旧戸隠村。現長野市)の修験道と関連づけられることがあります。十三仏付近は冠着山財産区で草刈りなどをしてくださっているようです。風月の会でもさらなる整備に協力できればと考えています。岩を十三の仏さんそれぞれに見立てたら面白いと思います。
 上の写真は、10年ほど前の春先、冠着山頂上から遊歩道を通って下りていくときに撮った、十三仏の地名が残るすり鉢付近の様子です。真中に岩がいくつか見えます。地図の隣は十三仏を掛け軸に描くときの画です。一番下が初七日を主宰する不動明王、最上部が三十三回忌の虚空蔵菩薩。右側には各菩薩の呼び名が記されています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。