さらしなへの都人のあこがれを調べているときに知った、鎌倉時代の都人藤原信実(ふじわらののぶざね)の次の歌がずっと気になっていました。
さらしなは心のうちの里なれば月見るごとに身を宿すかな
この歌を知ったのは20年以上前、信濃にまつわる古人の和歌を調べ上げた平林富三さんの「信濃古歌集」(郷土出版社)という本。さらしなの里と里に現れる月へのあこがれの気持ちを、こんなに素直に分かりやすく吐露しているのに驚き、本シリーズ72号で紹介しました。その後、作者の信実についての情報が集まってきて、この歌を詠むに至る信実の生きざまや思いが分かってきました。
「信濃古歌集」には、歌の出典について「弘長百首」と書いてありました。調べると、弘長百首とは、鎌倉時代中期の弘長元年(1261)、御嵯峨上皇の勅命によって、当時の一流歌人7人が、春夏秋冬の四季や恋などを題に、それぞれ百首の歌をまとめる形式で詠んだ歌群のことで、後の歌壇に大きな影響を与えました。
その7人の一人が藤原信実なのですが、1261年というと、信実は84歳。当時は相当な老人です。さらしなの里についての特別感のある歌をいくつも詠んだ百人一首考案者の藤原定家(ふじわらのていか)や摂政の九条良経(くじょうよしつね)を先輩とする同時代の歌人で、つきあいもありました。
定家と良経の歌についてはシリーズ155、163、256の各号で詳述しているので、それをご覧いただくとして、研究者の論考(末尾に記載)を読むと、信実は定家や良経らが編んだ「新古今和歌集」に自分の歌が入らなかったことに大きな挫折を感じていたようです。同和歌集は後鳥羽上皇の勅命によって編まれたもので、源平の動乱から武士の世となる激動の時代の貴族の存在意義を世に示すものでもあったことが関係しているかもしれません。
ただ、信実は写実的な肖像画の似絵の第一人者としても活躍し、新古今和歌集成立後になりますが、後鳥羽上皇の肖像画(写真中央上)も描きました。定家亡き後は、歌の名家としての定家の後継者の成長や活躍を支援するなどし、都では一目置かれる歌人になりました。しかし、家格がそんなに高くないこともあり、問題事の間に入る調整の役回りも多かったそうです。
性分として調整役がはまり役だったかもしれないとされる信実ですが、来し方への無念さの吐露とも受け止められる歌を晩年詠んでいます(いずれも新古今和歌集の後の「続古今和歌集」には入選)。
例えば―
遂の道昨日はすぎぬ今日もまたよもと思ふぞ儚なかりける
年といひてことしさへまた暮れにけり哀れ多くの老ひの数かな
「遂の道」は終の道のこと。人生最晩年の日々をはかなく思いながら過ごす情感、そして一年の暮れ、また年を積み重ねて老いた信実のかなしさが伝わってきます。
信実の娘(藻壁門院少将)は、信実が亡くなった後、墓所を訪れ、生前の信実の無念さをうかがわせる次の歌を詠んでいます。
年々の春の草にもなぐさまでかれに し人の跡を恋ひつつ
若草が萌える春の墓所で、心が慰められないで亡くなった父を弔っている娘の様子が浮かびます。
さて、もう一度、世の模範にもなる「弘長百首」に信実がなぜ、さらしなの歌を詠み込んだのかについてです。私は九条良経の次の歌を踏まえて詠んだものではないかと考えています。
更級を心のうちに尋ぬれば都の月にあわれ添いけり
「さらしなを心のうちに―」という詠み出しが似ています。古今和歌集の「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」を踏まえているのは明らかです。信実は晩年の嘆きをさらしなの里に託して歌にしたのだと思います。歌にしたら救われた感じがしたので「弘長百首」に入れようと思ったような気がするのです。読んだ人は「あの信実殿がそこまで思いを寄せたさらしなの里とは…」と想像とあこがれを膨らませたと思います。信実は「弘長百首」詠進から4年後の1265年、88歳で亡くなりました。長く生きた信実だからこその嘆きの歌で、このようなさらしなへのあこがれを歌に残してくれたのは有り難いことです。
左上の写真は、江戸後期に描かれた信実の肖像画、栗原信充という画家の作で国立国会図書館所蔵です。右の書は、早稲田大学図書館所蔵の「弘長百首」の写本の中の「さらしなは心のうちの里なれば―」の歌の部分(信実の書ではありません)。この歌は「秋」の題の百首の中に置かれています。
【参考論考】
「弘長百首について」(安田徳子、名 古屋大学文学部研究論集)
「藤原信実考」(米倉迪夫、美術研究 第305号)
「藤原信実試論」(久保田淳、「中世 和歌研究」明治書院)

