54号は、江戸時代、参勤交代で当地に立ち寄ったお殿様が遠眼鏡で姨捨山を眺めていたことを紹介する特集記事を掲載しています。53号に引き続き、さらしなの里歴史資料館のスタッフが取材した力作です。2026年の中秋は、更級地区の観月の名所郷嶺山(ごうれいやま)で、鏡台山から上る満月が見られることも紹介しています。画像クリックでダウンロード、印刷できます。
遠眼鏡で姨捨山を眺めたお殿様
千曲市を含む善光寺平南部は、交通の要衝として、古代には東山道支道、江戸時代には北国街道及び北国西街道が通り、明治時代には信越線(現在のしなの鉄道)と篠ノ井線が開通し、多くの人とモノが行き交いました。
江戸時代に整備された北国街道の大まかなルートは現在のしなの鉄道と国号18号に沿っています。市内の宿場は戸倉と矢代(屋代)、そして、寂蒔に「間の宿」がありました。間の宿とは、幕府が定めた正式な宿場ではなく、宿場と宿場の間に設けられた非公認の宿で、現在も寂蒔には本陣跡のお宅があり、お住まいの宮坂久美子さん(元八幡小校長)にお話をうかがうことができました。
宮坂家には、現在も当時の門や資料が残っており、この本陣は当時、通称「眼鏡場」と呼ばれたそうです。なぜなのでしょうか。宮坂さんによると、参勤交代で通る殿様をはじめ、街道を通る客人はこの本陣で旅の疲れを癒すと同時に、遠眼鏡(望遠鏡)で冠着山(姨捨山)や姨捨の棚田を眺め、季節によってさま変わりする更級の景色を楽しんでいたということです。 (4ページに続く)
(前さらしなの里歴史資料館学芸係 中村徳宏)
江戸時代から伝わる遠眼鏡(写真①)を実際に持たせてもらいました。材質は紙のため、見た目より軽く感じました。本体部分が伸縮可能で、唐草文様のデザインが施され、大変貴重なものです。なお、現在はレンズが無くのぞいても何も見ることができません。
この遠眼鏡でどのように景色を眺めていたのか。まず、宮坂久美子さんのお宅にある古い写真②をご覧ください。昭和40年頃に撮影された宮坂家の写真です。バイクの横に映っている幼い姉妹のお姉さんが宮坂さん。宮坂家の前の道が旧北国街道、写真右側が屋代、左側が戸倉方面です。現在は道路幅が広がり、茅葺の住宅も建て替えられていますが、住宅の右側にある門は残っています(写真③。この門は江戸時代から残る貴重な門で、客人用の入り口として使用していました。そしてこの門をくぐった場所が、いわゆる眼鏡場でした。
当時は宮坂家の門をくぐると、千曲川を挟んで西南の方向に冠着山が見えました(現在は周囲に高い建物が建っています)。街道を通る客人は本陣で旅の疲れを癒すと同時に、遠眼鏡で冠着山や姨捨の棚田を眺め、季節によって様変わりする更級の景色を楽しんでいたということです。
北国街道は江戸時代に整備された街道(脇往還)の一つで、江戸と金沢をつないでいました。五街道(東海道や中山道)に次ぐ重要な道で、加賀藩前田家や松代藩真田家などの大名の参勤交代や善光寺、戸隠詣で利用されたほか、佐渡の金を江戸に運ぶ役割がありました。本陣は大名や公家のほか、大名が使用しないときは一般人も利用したそうです。
参勤交代では、加賀百万石前田家の大名行列の規模が群を抜いていました。矢代宿の記録によると、元治2年(1865)には2千人、馬38頭にもなる大行列が通過しました。大名の本陣のほか、家臣達は158軒の旅籠のほか、寺院にも宿泊をしたそうです。寂蒔宿は大名が宿泊する場所ではありませんでしたが、休憩所(御小休所)として、各藩の殿様や家老が利用した記録が残っています。
幕末が近づくにつれ街道は通行人が増えました。寂蒔の宿場も通行人の増加とともに繁栄し、徳川御三家の尾張、紀伊の御家中(家臣)や京都の公家、各地の寺院の僧侶ら身分が高い人々が休憩で利用したという史料があります。教養の高い文化人は冠着山をみて歌を詠んだのかもしれません。街道を通じ、更級の魅力が全国各地に伝わったことでしょう。
令和8年度より森将軍塚古墳館に異動になりました。短い期間でしたがお世話になりました。
【参考文献】更埴市史、戸倉町誌、長野市立博物館「道が人をつなぐ-北国街道の400年」
鏡台山から上る満月 さらしなの里展望館で見られます 9月27日観月会を開催
今年の中秋は暦では9月25日(金)ですが、満月は翌々日の27日(日)。この日、さらしなの里展望館で鏡台山の峯の真ん中から上る満月が見られることが分かりました。天文シミュレーションアプリ「ステラナビゲーター12」をパソコンで操作していたところ、上の画像が現れました。このアプリのすごいのは、観月したい場所を設定すると、月が上る東の山並みが映し出されるところで、何時何分に、どの山から月が顔を出すか、実際に月を動かしながら見ることができます。上の画像は午後6時9分の様子です。
さらしなルネサンスでは、おととしと昨年、信州さらしなおばすて観月祭で、アプリの操作と実際にその通りに月が現れるか確かめるイベントを開催し、いずれもシミュレーション通りの場所と時間に月が上ってきました。 それまでは中秋であっても、月がどこから現れるか分からずやきもきすることがありましたが、このアプリのおかげでじっくり狙いを定めて待つことができます。山の端に現れて空へと旅立っていく月の様子はそれは感動的です。
さらしなの里展望館は、更級地区の観月の名所だった郷嶺山にあります。昔は著名人も訪れ、鏡台山の月を楽しんでいた歴史があります。そうした歴史文化も知り、希望する人はそばも食べられるイベンドを計画しています。夏になったら、チラシなどであらためてご案内します。
(芝原区・大谷善邦)
四季の変化が楽しめる古墳 千曲市雨宮 若林みき子
私は千曲市の北東部、車なら2、3分で長野市という雨宮に住んでいます。近くには「鞭声粛々…」の碑がある「雨宮の渡し」があります。南の有明山には県内最大級の森将軍塚古墳があり、その存在感は重厚で美しいです。
古墳に登ると一望千里。気持ちが落ち着きます。善光寺平、飯綱山や戸隠、西には険しくて美しいアルプスの山並み…。ふもとは屋代田んぼが広々と平らかです。この一角に実家の田があり、よくお手伝いしたことを思い出します。農作業は手仕事で、子どもも一人前として扱われました。当時は春と秋に農繁休業がありましたから(笑)。
屋代田んぼ(屋代遺跡群)からは古代の遺物や遺構がたくさん出土し、高速道路を造るときの発掘では、7~8世紀の祭祀具(馬や人の形代、斎串)がいくつも見つかりました。飛鳥時代に災害や伝染病が広がり、人々は祭祀を行い、除災や疫病退散を祈願したそうです。祭祀具は木の板で作ってあるのに、しっかり形が残っていたことに驚きました。形代などにすがり、懸命に祈ったのでしょう。
最近、気づいて驚いたことがあります。森将軍塚古墳のある有明山の右側に冠着山が見えていたんです。雨宮に来たさらしなの里の方が「児抱岩もよく見える」と興奮して教えてくれました。わが子たちが大池でキャンプして冠着山に登ったことを懐かしく思い出しました。
さて、年を重ねると、健康が一番。朗読のボランティア活動でたくさんの仲間と出会い、良いご縁に恵まれ楽しく過ごしています。たまに森将軍塚古墳に登り、景色を眺め、歴史に思いをはせ、鳥の声を聞きながら四季の変化を楽しんでいます。
更級小体育館で第31回縄文まつり 雨にめげずに
2025年10月25日(土)夕方、さらしなの里古代体験パークへ足を運ぶと、第31回縄文まつりの会場準備が整っていました。実行委員の皆さんは、翌日の天気予報が雨にも関わらず、会場を美しく整えてくださいました。31年の歴史を刻んできた方々の想いが込められた整然と準備された会場の空には美しい虹がかかっていました。
翌26日(日)、予報通り朝から無情の雨。第31回縄文まつりは更級小学校体育館での「縄文まつり集会」の開催となりました。体育館での開催が決定すると急ピッチで準備を進めました。職員総出で保護者席の御座を敷き、来賓の方々の椅子を並べ、急きょ作成したプレゼンを体育館ステージに投影し、集会の進行を確認。昇降口には受付を設置し、児童に配布するおにぎりやさつまいもの準備も万端に。
しばらくすると、子どもたちが登校。一人ひとりお手製の縄文服に身を包み、はちまきを締めて気合十分。10時半から行う「縄文まつり集会」に向け、低学年は各教室で、4、5年生は体育館で、最後の練習に取り組みました。
実行委員の皆様、来賓の皆様、保護者の方々、たくさんの方々をお迎えし、盛大に始まった「縄文まつり集会」村長からのお話をお聞きし、次第通り、豊穣儀礼・縄文芸能村・縄文の歌と、子どもたちの元気のいい声が体育館に響き渡りました。見てくださる方々が多いと子どもたちも張り切ります。各学年、練習の成果を存分に発揮し、更級の子どもたちの生き生きとした元気のいい姿が見られました。集会後の子どもたちの振り返りには、雨にもめげない前向きな感想が綴られていました。
「体育館でもおもしろい!」
「雨で中止となって、体育館でやったのは残念だったけど、それでも学年でいい発表をしていていいな!と思いました」
「縄文パークでやらないとあまり縄文人っぽくないけど、縄文芸能村の時に、とても盛り上がっていたので、そんなことないかもしれない!と思いました」
「今日は待ちに待った縄文まつりだと思ったんですが、なんと雨で縄文まつり集会になりました。でも、練習した成果が発揮できてよかったです!」
「神様、おいしく召し上がってください」という気持ちで猪の模型を神様にあげられた。今年は6年間で最後の縄文まつり集会を楽しむことができました。
集会の最後は「縄文の歌〜祈り 縄文のムラに〜」。4、5年生によるリコーダー・太鼓演奏と共に、体育館の皆さんといっしょに歌いました。来年の縄文まつりは、いい天気に恵まれ、縄文の里で行えますように…と願いが込められた歌声が響き渡りました。
(更級小・石井将之)
縄文の神の社を新築
縄文の人々は、富の意識を持たず、互いに助け合い集落を作り、大自然と共存することを確立した。そのような豊かな精神文化を目に見えるようにしたのが、さらしなの里縄文まつりの「豊穣儀礼」だ。祭壇では、発掘された土偶を神に見立て小社に安置して、更級小学校各学年が、山の恵みや川の幸を奉納し、長老の先導で拝礼する。
この小社づくりは会員であった信州の名工西野入誠一さん(令和5年逝去)が中心になり、毎回手づくりしていたが、準備の大きな負担となり、この祭りがこれからもさらしなの里の中心的な祭りとなることを願い、芝原区の大工棟梁、大谷威四さんに依頼し、移動可能な小社とした。雨天のため会場を更級小体育館とした昨年の第31回のまつりでは、早速、移動可能なその社に活躍してもらった。普段も資料館ロビーに展示してありますので、ご覧ください。
(さらしなの里友の会会長・豊城巖)
資料館新任スタッフ
4月から前任の中村徳宏に代わり、さらしなの里歴史資料館勤務を命ぜられました宮坂敏です。生涯学習や公民館、文化会館、多文化共生などイベント事業を担当する部署に長くおりましたので、これまでの経験を活かし、少しでもお役に立てればと思っております。

