長野市民新聞での連載「さらしなの里発千年を貫く嘆きの美楽」の2回目です。2026年10月6日付。クリックで画像拡大
唱えて心の安寧得る 月の都の原点「わが心歌」
2020年、千曲市は「月の都」として日本遺産に認定されました。さらしなルネサンスはその6年前に「月の都千年文化再発見の里づくり」をスローガンに活動を始めており、今は市と連携して事業を行っています。「月の都」をスローガンの頭に置いたのは、さらしなの里が「月の都」となった原点である古今和歌集収載の「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」(以下「わが心歌」)を踏まえたものです。
「わが心歌」は、前回取り上げた松尾芭蕉と世阿弥をはじめ歴史に名を遺す人たちを刺激し、芭蕉と世阿弥にはそれぞれ「俤句」と謡曲「姨捨」という名作を作らせました。今回はこの歌が偉人たちの創作意欲を搔き立てた理由について、さらしなの里の地理的条件と表現の魅力から明らかにし、さらしなの里が日本人のあこがれになった経緯を書きます。
地理的条件とは、都人たちの往来する道が冠着山(姨捨山)の西の峠を越えて通っていたことです。
昔から道は、人間や物だけでなく情報を運んできました。今も上信越自動車道と長野自動車の2本の高速道路が千曲市を走るように、この地域には時代を超えて重要な道が通り、奈良、平安時代も長野自動車のルート沿いに「東山道の支道」が通っていました。東山道とは、朝廷が都と東日本をつなぐために造った国道のことで、長野県には岐阜県中津川市から阿智村の神坂峠を越えて入り、飯田、伊那と北上。松本北部で軽井沢に向かい、群馬県に抜けていきました。
松本北部では枝の道が北に向かい、日本海とつながっており、その道が冠着山の西にある峠(古峠)を越えていました。東山道の本道から分岐した道なので東山道の支道と呼ばれます。
都と日本海をもつなぐこの道は、朝廷の十分な支配下になっていなかった東日本を治めるうえで大変重要な道で、この道を通り、都の役人など知識層の人たちが行き来していました。峠では旅の来し方行く末を眺め、いろいろな思いを巡らせたはずです。古峠に立ったときは、さらしなの里や千曲川が目に入り、月が空にあることもあったでしょう。
こうした旅先での感慨や光景は、都人たちの格好のみやげ話となり、さらしなの里の景観や月の美しさは都で話題になり、全国に広がっていったと考えられます。その広がりに重要な役割を果たしたのが、10世紀初め、天皇の命で編まれた古今和歌集に載る「わが心歌」なのです。
広がりの理由を知るうえで押さえておきたいのは、昔から人間が抱える永遠の苦しみや悲しみは、老いや死だということです。老いや死の苦しみや悲しみからは、逃れられません。そのことを57577の短歌のリズムに載せて、だれでも唱えられる美しい調べにしたのが、「わが心歌」です。
特に魅力的だったのが「慰めかねつ」という表現です。今でも「○○しかねる」と使うように、「しかねる」は、どうにもならない理由や事情があってできないという苦悩や煩悶を感じさせる言葉です。
美しいことで有名なさらしなの里の姨捨山に照る月を見て、悲しみや苦しみは慰められたとうたうのではなく、「それほど美しい月を見ても、どうにも慰められない」とうたったところに、この歌の力があります。本当に切実な苦しみや悲しみは、そんなに簡単にないものにはできません。でもうたっているときは、慰められているような感じがします。「わが心歌」は、人間の心の真実をうたっています。
もう一つ、「わが心歌」の力は、唱えると、すがすがしくて躍動を感じる調べの「さらしな」という地名と、老いや死と直結し、おどろおどろしく悲しい響きの「姨捨」という言葉の対立と統合です。相反するイメージの言葉をうまく組み合わせると、人は面白さや美しさを感じます。
そして、ここで大事なのは、「わが心歌」の作者も(古今和歌集では「よみ人知らず」)、歌が気に入って読んだ人たちも、深い悲しみに落ちっぱなしだったわけではなく、癒されたということです。この歌を唱えることによって心の安寧を得ていたと考えられます。
癒しの効果をこの歌が持ちえたのは、効果を発揮させる自然と景観の条件が、さらしなの里にそろっていたからです。日本一長い千曲川(新潟県に入り信濃川)の流域の広大さでは上位の地に位置し、川の流れは西から北に大きくカーブ。その様は流麗で、夜になれば上空を渡る月、その月の光りを浴び、照らし返す川面。そして月が照らす姨捨山という文学的な呼び名の独立峰冠着山がそびえています。月の光りは、身を包むように照り、注ぎ、たとえ一人であっても孤独を和らげる優しさがあります。
こうした特長を、東山道の支道を往来した都人がみやげ話として持ち帰り、聞いた人たちは想像力を膨らませ、「わが心歌」は誕生。この歌に触発されて多くの人が来訪し、さらしなの里姨捨は、苦しく悲しい境遇であっても、決して自分は独りではないことを確認できる癒しの場として認知されていったと思われます。そして、だれもが認める格好の嘆き場、嘆くことを楽しむ場となったのです。

