49号・秀吉が詠んだ「さらしな」の和歌

 「さらしな」という地名はかつて全国各地にありました。これまでに分かったものをはじめ、天下人の豊臣秀吉にとっても大変なあこがれの地名であったことを裏付ける和歌を紹介します。
 京都市東山地区に
 まず、「新更科」です。これは京都市東山区にある安井金毘羅宮一帯の別称だったようです。同神社の近くには花街として知られる祇園があり、貴族らの遊ぶ風雅な地区でした。東山とは金閣寺のある北山に対して使われる呼び名で、やはり東山区にある銀閣寺に象徴される茶道や水墨雅など、幽玄な美や文化を発展させた地としても知られます。
 多くの仏閣神社は山を背に建立されていますので、その山の端から顔を覗かせるは月は間近に見上げる格好になります。そのため、月には親近感と格別な味わいがあり、その美しさは観月の名所である信濃のさらしなに劣らないと、「新」をつけて「新更科」と名づけた可能性があります。
 新更科という呼び名があるということを教えてくださったのは、千曲市鋳物師屋の会社経営馬場條さんです。馬場さんは、姨捨山に捨てられる老婆が、背負ってくれている息子のために木の枝を折って帰りの道しるべにしたという説話をもとに「栞の故郷」推進活動に取り組む方で、京都在住で木曽出身の弁護士、高木清さんから「新更科の呼び名のいわれを調べてほしい」と頼まれていたそうです。
 現在もこの一帯には月見町という字名が残っています。
 更科姫の里
 山梨県には「更科村」がありました。現在の韮崎市の上ノ山、岩下両地区で、明治八年から昭和12年までの自治体名でした。この地には「更科姫伝説」があることから、この名が付いた可能性があります。
 更科姫が実在の女性かは不明ですが、伝わる話の一つによると、彼女は信濃国更科の生まれで、武田勢の武将と結婚しました。武田軍のために大きな働きをし、上ノ山地区で没したという話が残っています。
 家康が命名?
 「更科村」は千葉県にもありました。現在の千葉市若葉区の一つの地区ですが、1889年(明治22)、九つの村が合併し、更科村を名乗り、1955年(昭和30)の昭和の大合併でなくなるまでの自治体名でした。同地区の更科郷土史研究会編「さらしな風土記」によると、命名の由来はこうです―
 慶長19年、江戸の将軍徳川家康が鷹狩のためこの村に入り、寺で休憩しました。そのとき、出されたそばがとてもおいしかったので、家康は「このそばはどこでつくったか」と尋ねました。村人が「この近くでつくった」と答えると、家康は「信州さらしなにも名高いそばがあるが、それよりも風味が良い」と言って気に入り、このあたりを「さらしな」と呼ぶようにするがいいと、言いました。このときから更科村と呼ぶようになったのだそうです
 この由来が事実がどうか分かりませんが、「さらしな」という地名が、当時の人たちのあこがれの地であったことをうかがわせます。現在もそこには「更科小学校」があり、「更科」の呼び名は息づいています。
 富士山と同じ
 長野県中野市には「更科峠」という呼び名の峠があります。
 中野市から山之内町の佐野地区へ抜ける峠で、湯田中温泉に通じる道があります。信濃毎日新聞社が編集した「新しなの地名考」は、「更科峠には御座石、鏡台岩などの巨岩があって、ここで領主が観月の宴を催したとの伝説がある」と紹介しているので、更級郡の姨捨になぞらえて更科峠の名前がついたことがうかがわれます。現在もここの付近には「更科」という字名が残っています。
 このほか、福島県にも、明治の市町村大合併が行われた1889年までは「更科村」がありました。現在の磐梯町の一つの地区です。探せばほかにもまだあると思います。
 東日本には富士山が自分の住んでいるところから見えるため、「富士見」と名づけられた地名がいくつもありますが、その命名の心理に近いような気がします。 
 伏見の月
 少し余談ですが、「新更科」の呼び名について調べに行ったとき、豊臣秀吉が詠んだ「さらしな」の歌があることも分かりました。
 安井金毘羅宮近くの高台寺に秀吉直筆として伝わるもので、右の写真がそれです。歌は―
  さらしなやをしまの月もよそならんただふしみ江の秋の夕暮れ
 「をしま」というのは宮城県の松島湾に浮かぶ一つの島「雄島」のことではないかと思われます。雄島は古来、月を含めた景勝地として都にも知られていました。「伏見江」とは、秀吉が現在の京都市伏見区に築いた伏見城の城下に広がっていた水の豊かさを指す言葉ではないかと思われます。
 城のある丘陵の下には、巨椋池と呼ばれる京都で最大の淡水湖がありました。面積は約800㌶。そこに宇治川も流れ込む遊水地でした。さらにこの下流に行くと、大阪の淀川となります。しかし、戦前、食糧増産のための干拓事業で農地になってしまい、今はもうありません。
 長野県最大の湖である諏訪湖が約1300㌶ですから、諏訪湖の約3分の2の大きさとなります。このように大きな湖の水面に大きな川も流れ込む。当地の月が照らす千曲川の水が白く輝くように、巨椋池や宇治川の水面が月光を美しく反射させていたのかもしれません。
 池面の観月台
 とすると秀吉のこの歌は、名月で知られる更級や雄島も伏見の月にはかなわない、という気持ちを反映したものなのではないでしょうか。さらしなへのライバル心があったということは裏返せば、それだけさらしなが天下人にとってもあこがれの地だったということです。
 秀吉は茶道や芸能などにも造詣が深く、貴族文化と庶民文化を融合させた「桃山文化」を花開かせる重要な役割を荷った人物だけに、歌にも通じていたでしょう。
 高台寺は秀吉亡き後、妻のねねが菩提寺として建立しました。今も、背後の山に上る月が境内の池面を照らす様子が観光名所です。上の写真をご覧ください。下がその池で、その上に掛かる橋が「観月台」と呼ばれています。秀吉の直筆の和歌は、高台寺に伝わる宝物を掲載した「高台寺の名宝」から複写しました。

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