56号・勇婦として人気のあった更科姫

 歌舞伎で演じられる姫に「更科姫」がいることをシリーズ27回で紹介しましたが、その後、この姫に関する文献や逸話がいくつもあることが分かりました。
 絵本草紙で人気
 内容で多くに共通しているのは戦国時代、信濃の東北信に勢力を広げていた武将、村上義清の家臣の娘という設定です。この娘は美麗で男勝りの力と気概を持っています。別の家臣と結婚するのですが、信濃に勢力を拡大しようとしていた甲斐(今の山梨県)の武将、武田信玄の家臣が更科姫を襲ったため、切りました。このため更科姫の夫はいわば人質として武田勢に預けられます。更科姫も後を追う過程で子どもを産み、夫のために武勇を発揮します…。
 この物語は全国的に広まったようです。その人気の始まりは「絵本更科草紙」ではないかと考えられます。物語は江戸時代の1810年代に栗杖亭鬼卵が作ったものです。当時は今のような洋本はまだありません。版木に墨を載せて和紙に写し取りその和紙を束ねて糸でとじた和本で、江戸、京都、大阪の三大都市でたくさん流通したようです。
 物語の特徴は、更科姫を、主君尼子氏のお家再興に生涯を捧げた忠臣として人気のある山中鹿之介(幸盛)の母親と設定している点です。戦国時代、尼子氏の拠点だっところは、安来節で知られる現在の島根県安来市です。「山中鹿之介の母が更科姫」というのは歴史的には事実ではないと思われますが、夫と主君にそれぞれ忠誠を誓った猛者としてこの二人を結びつけたことが、物語を全国人気にさせた大きな理由だと思われます。
 そして、これが土台になって、歌舞伎の「紅葉狩」に登場する更科姫なども考案されたのではないかと思われます。
 家康も破った?村上義清
 更科姫の人気には、戦国時代の川中島合戦も関係していると思われます。
 村上義清は武田信玄を打ち負かしたただ一人の戦国武将です。現在の上田市で繰り広げられた戸石城の戦いです。そしてその武田信玄は後に全国を統一して江戸幕府を開く徳川家康を破った唯一の武将です。その戦いは現在の静岡県浜松市三方ケ原町近辺であった「三方ケ原の戦い」です。
 家康は死後、「東照大神君」という神様に崇められ、その神様をも打ち破った武田信玄。江戸幕府は軍事に関する学問として甲州流と呼ばれた信玄の戦術をもとにしていたこともあり、信玄の存在感は死後も特別なものだったと思われます。逆に言いますと、家康に勝った信玄を打ち負かしたのが村上義清になります。いわば三段論法で義清は、当時の人たちから高い評価を受けていたのです。
 更科姫は、その村上義清勢の家臣の娘。1800年代に入ると、貨幣経済が発達して機織など女性の仕事がとても重要視される時代になったので、妻の役割への評価も高くなっていたことも影響し、更科姫人気が生まれた可能性もあります。
 山梨県韮崎市には墓が
 更科姫にまつわるエピソードをいくつか。
 シリーズ49で少し紹介しました山梨県韮崎市に伝わる更科姫です。同市上ノ山地区には更科姫が住んだ場所とされるところが伝わっています。その伝えによると、更科姫は信玄の後継者の武田勝頼の命令で、夫とともに高天神城(現在の静岡県掛川市)を落としましたが、家康の猛攻で夫は死んでしまいました。更科姫は家臣たちを助けるため富士川から甲斐に戻り、上ノ山地区まで来て、居を構えました。そして天満宮を祀り、夫や息子、家臣の回向をしながら生涯を閉じました。
 近くにお住まいの長坂邦宏さんにその場所を案内していただきました。右の写真です。左の円柱状の墓石が地元で更科姫の墓として伝わるものです。長坂さんが手を添えている碑に、更科姫にまつわる逸話が彫られています。
 坂城町教育委員会が合併50周年を記念して作った冊子「ふるさと探訪」の中には、昭和時代になってつくられた更科姫の童話が載っていました。その解説文によると、作家の小泉長三さんという方がつくりました。お話のなかでは、やさしくて力持ちの更科姫が登場します。解説文は「戦国時代とは時代も社会もすっかり変わっていますが、女の子のみならず、男の子に求められるのは、やさしい心と悪にくみしない正義感です」として紹介しています。
 このほか、戦前には「女傑更科」「妻恋信州城」といったタイトルの映画でも更科姫が登場しています。今も講談で語られることがあります。これらの中でも「勇婦」として物語をドラマチックにする人物として欠かせない役割を担っていました。
 歴史の積み重ねの上に
 村上一族の始祖は平安時代、白河上皇を呪詛したとして都から遠くに流された源氏の一派で、その一人が現在の坂城町村上地区に居を構えたとされます。
 村上郷はその源氏が流される前から平安時代の文書にも登場する郷の名前です。そしてその郷は更級郡のなかにあるとされています。また、村上氏といえば、南北朝時代、現在の奈良県吉野町に南朝の拠点を設けていた後醍醐天皇の三番目の息子「護良親王」を、北朝軍の襲撃から落ち延びさせようと自決した村上義光のことが広く知られています。今も吉野山には大きな碑が建ち、また、全国的に忠臣として祭りなどのモチーフになった武将です。
 そうした歴史上の事実や逸話などが積み重ねられた上に、「絵本更科草紙」が出来上がったのではないかと思われます。
 ただ、村上義清の時代には、村上氏の拠点は千曲川の対岸にある埴科郡に移っていました。これは人や物資の往来が盛んな北国街道があったせいでしょうか。このため、義清の菩提寺(満泉寺)も、拠点の城(葛尾城)も埴科郡です。
 「絵本更科草紙」ではしかし、埴科姫ではなく更科姫とした理由は、もともと村上一族は旧更級郡に拠点を構え、また、江戸や関西では、「さらしな」という言葉の方がそばや月の里としてよく知られているので「更科姫」としたのではないでしょうか。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。