太宰治の「姥捨」とさらしなの「姨捨」(美し17)

 さらしなと姨捨(おばすて)のことを調べるため、東京神田の古書街をよく歩き、たくさん買った。「走れメロス」など教科書でもおなじみの作家、太宰治の「姥捨(うばすて)」もその一つ。だが、これは買ったきりで、十数年間ほったらかしだった。読み始めて男と女のことだとは分かったけれど、姨捨伝説やさらしなにまつわりそうなところがまったくない。
 現在の勤務地である山梨県が、太宰が妻をめとったゆかりの地であることなどから太宰はよくニュースになる。それで気になり始め、図書館などで「姥捨」を論じた文献(「太宰治 人と作品」福田清人・板垣信著=清水書院発行など)を読んだ。これは、さらしなの里がもっと注目していい作品だと思うようになった。
 研究者の間では、「姥捨」は太宰が女性と心中未遂を起こした後の昭和13年(1938年)、作家として再起しようと書いた特別の意味がある作品だとのこと。内容は、男と女が心中しようとして結果的にできなかったその過程を、心中未遂体験者である太宰自身の目線を織り込んで振り返りながら追っていくというもの。太宰は、自分がダメ人間であることを武器にして「人間失格」をはじめエンターテインメント性のある作品をいくつも書いた作家だが、そのエンターテイメント性はこの作品にも感じられる。
 「姥捨」で、自殺に向かったのは信州の姨捨ではなく群馬県の水上温泉の山中。太宰が実際に心中未遂を起こしたのもこの温泉。なぜ作品のタイトルが「姥捨」なのか。最後まで読んでみてその手掛かりがあった。睡眠薬を大量に飲んでも2人とも死にきれず、山を転げ落ちた女の姿について「もはや人の姿ではなかった。髪はほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた」とのくだり。男は女の体を引きずり上げるうちに、一緒に死ぬのをやめる。そして女の「髪の杉の朽葉を一つ一つたんねんに取ってやった」。ついに男は「あたりまえに生きる」ことを決意し、女と別れる。
 「姥捨」の「姥」には、老女という年齢の意味以上に、行き場のない吹き溜まりというような意味を感じる。男はそんなことを山から転げ落ちた女の姿に感じたと思うのだが、その姿はこの場面前までに描かれてきた女の無邪気さ明るさと相いれないところが恐ろしい。しかし、男は古びた汚れの象徴のような「杉の朽葉」を女の髪からたんねんに取り除いてやる。つまり「姥」を捨てさった…。さらに「捨」には女との別れ、「姥捨」には閉塞感からの脱出したい願い…。かなり強引というかこじつけの解釈の感もあり、太宰も生きていれば苦笑するかもしれない。単に意表をつくタイトルにしただけかもしれない。
 さて、さらしなの里の姨捨。都の歌人たちは、姨捨山にまつわる物語や里の風景を歌に詠み込むことで心を癒し、若返ることができた。その意味でさらしな姨捨は再生の地。太宰も字は違うが再起の作品に「姥捨」とタイトルをつけることで再生・再起のきっかけをつかもうとしたのなら、太宰も姨捨に同じパワーを感じていたのかもしれない。本当のところはわからないが、深沢七郎さん(深沢さんも現山梨県笛吹市生まれ)の「楢山節考」と同じように、さらしなの里にとって大事な作品だと思う。捨ててしまおうかとも思った古書だが、とっておいてよかった。

「姥捨」は中編。インターネットの青空文庫で読むこともできる。https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2256_19985.html