更旅151号 千年前の平安京であっった「さらしな問答」

 当地の名を全国に知らしめた「更級日記」。作者である菅原孝標女がどのような経緯でこの日記を書き、タイトルを決めたのか。「源氏物語」が京の都(平安京)で話題になっていた千年前、「さらしな」がなぜ、都の高貴な人たちの関心になっていたのかも合わせ、その理由について、史料をもとに推測してみたいと思います。仏の教えが廃れる時代が始まるという末法思想が影響しているということはシリーズ47などで書きましたので、今号では、その中で菅原孝標女が「さらしな」に関心を深めた理由に絞ります。
 おじさんが先生  
 調べていて「なるほど、そうかもしれない」と思ったのが、菅原孝標女(1008〜59?)と能因法師との関係です。能因法師は(988〜1050?)は菅原孝標女より20歳年上ですが、ほぼ同時代を生きた人。中流階級の貴族の生まれでしたが、出家し、和歌の道を生涯、追究しました。
 自分の足で東北地方をはじめ各地を歩き、地名が持つ想像換起力を世に紹介しました。現在の「歌枕」の地を示したさきがけで、江戸時代の俳人、松尾芭蕉に「奥の細道」の旅をさせる大きな影響を及ぼした人です。その能因法師は菅原孝標女のおじさん(母親の兄、藤原長能)を和歌の先生と仰ぐ人で、しかも、その能因法師は、当地にも旅をし、次の歌を作っているのです。
  さらしなや姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな
 昔、さらしなの地で夜を明かしたことのある能因法師が、都かその辺りで月を見ているときに、さらしなでの観月体験を感慨深く思い出して詠んだ歌です。ひょっとしたら、菅原孝標女はさらしなについて、能因法師から話を聞いて、イメージを膨らませたのではないか? 菅原孝標女にとっては自分のおじさんを先生と仰ぐ能因法師ですから、菅原孝標女と能因法師の二人の間になんらかの接点があっても不思議ではないと思い、二人が出会った可能性がある場面がないか探しました。
 ありました。天皇の側近である当時の最高権力者、藤原頼通の孫である祐子内親王の家で度々、行われた歌会です。内親王というのは天皇の娘のことです。菅原孝標女はこの内親王の世話をする女房として働いており、この歌会には能因法師が有力な歌人として参加しているのです。
 年を重ねて自分の晩年を案じていた菅原孝標女ですから、さらしな・姨捨に旅をした能因法師が縁者であるなら一層、「どんなところでしたか」と尋ねたくなったのではないでしょうか。能因も歌の先生の姪なのだからと、自分の観月体験やさらしな・姨捨の風景を語ったかもしれません。当時は今のようにだれでもが手軽に旅ができる時代ではありません。菅原孝標女も自らの足で当地を訪ねた形跡がありません。能因法師からの情報をもとに、さらしな・姨捨の世界をイメージを膨らませ、日記を書いたのではないでしょうか。
 能因法師が菅原孝標女のおじさんを先生と仰いだ理由は、従来の作風にとらわれない作風がおじさん(藤原長能)の歌にあったこともあるようです。当時の歌づくりは想像の世界を詠んだものが多かったそうです。自分の足で歩いた実感をたくさんの和歌に詠んで松尾芭蕉を始め後の時代の詩人たちに影響を与えた能因法師ですから、普通とは違う作風の菅原孝標女のおじさんに魅力を感じた可能性があります。
 旅と和歌の力で
 能因法師のことを調べ、さらしな・姨捨への関心が京の都で高まっていた理由についても想像を膨らませることができました。やはり「旅」と「和歌」の力が大きかったと思います。特に天皇の命令で編纂された勅撰和歌集です。最も権威のある和歌集ですから、そこに載っている歌は大きな話題になったはずです。905年に編まれた古今和歌集を初めに、室町時代までの約500年間に、全部で21の勅撰和歌集が作られたのですが、その中で「さらしな・姨捨」が詠みこまれている歌を調べました。そこには和歌を作った経緯が添えられているものがあるのですが、「信濃に下りける…」などと、旅との関連を強調した形で作った歌があります。
 例えば    「信濃国に下りける人のもとに遣わしける」とした上で
   月影はあかず見るともさらしなの山のふもとに長居すな君  (紀貫之作、拾遺集)
 さらに「越後より上りけるに姨捨山の麓に月あかかりければ」とした上で
   これやこの月みるたびに思ひやる姨捨山の麓なりけり   (橘為仲作、後拾遺集)
  紀貫之の歌は、信濃に任官する人に「信濃と言えばさらしな・姨捨の月が有名だが、そこでの月が美しすぎるからといって、ずっといてはいけない。早く京の都に戻ってきてほしい」という気持ちを詠んだものでしょう。橘為仲の歌は、新潟からの帰りに見たさらしな月の美しさを感慨深く思い出したものです。こんな風に勅選和歌集で紹介される「さらしな」です。訪ねたことがない人がさらしな・姨捨を盛り込んだ歌を作るためには、実際に訪ねた人にどんなところなのか聞き、自分なりにイメージを膨らませることが必要だったでしょう。
 さらしな・姨捨には、自分の晩年をいやおうなく考えさせる響きがあります。そうやって、都の人々はさらしな・姨捨の世界が身にしみるようになり、「更級日記」も執筆され、また和歌にも詠み込む人が増え、伴って月の美しさが強調される地名になった可能性があります。そして最初に大きな影響を与えた和歌が古今和歌集収載の「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」だったのです(この和歌についてはシリーズ30、60など参照)。
 右の写真はかるたの「小倉百人一首」(任天堂)に描かれた能因法師とその歌。左上は天皇家に受け継がれてきた全勅撰和歌集を保管した蒔絵の箱です。その左上の写真は、菅原孝標女が詠んだ和歌「天のとを雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな」が選ばれた勅撰集の一つ「新勅撰集」(1235年)です。「勅選和歌集入門」(有吉保著、勉誠出版)から複写させていただきました。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。