更旅221号・「さらしな」は月の音色だった

更旅221・わが心歌に至る経samuneiru

 質問 当地を世に知らせる大きなきっかけになったのが古今和歌集に載る「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」(作者不明、以下「わが心歌」)ということですが、それ以前にさらしなを詠んだ和歌はないのですか。ないのなら、どのようにしてこの歌ができたのですか。

  見つかりません。「わが心歌」は905年編纂の古今和歌集に載っています(詳しくはシリーズ31参照)。それより150年くらい古い8世紀半ば成立の万葉集に「さらしな」「姨捨」の言葉が出てくる歌がないか探しましたが、見つかりません。しかし、のちにこの歌をモチーフにした姨捨山説話が盛り込んだ「大和物語」作者をはじめ、あまたの歌人の想像力をかき立てることになった和歌ですから、この歌が誕生する理由が何かあるはずと思っていたところ、信濃毎日新聞の記事(2012年10月19日付夕刊、左に掲載)で大きなヒントを得ました。「太陽の神」だと思っていた天照大神がもともとは「月の神」だったというのです。
 天照大神は日本の成り立ちを示す歴史書「日本書紀」で天皇家の祖先神(氏神)とされているのに、かぐや姫が登場する「竹取物語」をはじめ都の宮廷文化は月が主役で太陽の気配が薄いのが不可解でした。でも、祖先神が月なら、月が美しいさらしなという地名に都人の関心が高まっても不思議ではないと思いました。
 記事で紹介されている古代研究家、三浦茂久さんの「古代日本の月信仰と再生思想」(作品社)を読み、驚きました。さらしなは古代、再生・新生イメージを想起させる響きが組み合わさった言葉で、満ち欠けを繰り返すため「再生・新生」の象徴だった月そのものもイメージさせていた可能性があるのです。
 天武天皇の強い太陽志向
 天照大神はもともと月神だったとする三浦さんの一番の論拠は、万葉集でこれまで太陽が地上を照らすと解されてきた「天照(あまてら)す」という言葉が実は、月とセットで詠まれていたことです。太陽は登場しないのです。歌は「心の真実」なのでうそはつけません。いくつもある月とセットの歌のうちでたとえば次です―「ひさかたの天光(あまて)る月の隠りなば何になぞへて妹(いも)を偲(しの)ばむ。月の姿が見えなくなってしまって、恋人(妻)を思うことがなかなかできない、月よ、再び姿を現してくれないか…。この場合の「月」は日中に浮かぶ月ではないでしょう。とすれば「天光(あまて)る」の「天」は夜空のことになります。愛する人の面影を、夜空を照らす月に託して恋しのんだのがこの歌ですから、「天照」大神ももともとは月の神だったとしてもおかしくはありません。
 本当は月神だった天照大神が太陽神になったのは、天皇の地位を争った古代最大の内乱、壬申の乱(672年)で勝利し天皇を中心とする中央集権国家(天皇親政)の礎を作った天武(てんむ)天皇以降の時代。7世紀後半、勢力を強める中国(唐)や朝鮮半島の国(新羅)に対抗するためだったようです。国名を初めて「日本」にしたのも天武天皇で、太陽への強烈な志向がうかがえます。三浦さんはまた、黄金色の仏像など太陽光を賛美する仏教思想が朝鮮半島経由で輸入され、「日本を代表する神は太陽の方がいい」との判断が、天武天皇にあったとためではと考えています。
 「月の都」にぴったりだった
 三浦さんは万葉集に「月の文化」を濃く感じたため万葉集をはじめ文字に残された古代の言葉を吟味しました。その結果「さ」「さら」「しな」は満ち欠けを繰り返す新生・再生の象徴である月をイメージした言葉だと気づきました。特に「サ」音が重要で「さなえ(さ苗)」「さわらび(さ蕨)」「さくら(さ蔵)」の接頭音にあるように、サ音は再び新しく生まれ変わる蘇り、新生の意味を持ち、月の満ち欠けの現象と重ねて用いられる言葉でした。「シナ」も現在、たわんでもまたもとに戻る柔軟さを意味する「しなやか」や、雨が激しく降るさまをいう「篠突く雨」に残るように繰り返し、再生の意味が込められた音だそうです。
 シリーズ159では日本語源大辞典(小学館)をもとに、「サ」は「小百合(さゆり)」などサの後に続く言葉を強調する役割を持ち(「さら」は「サ新」)、「シナ」は坂の意味だと紹介しましたが、三浦さんの論考は、音の響きが古代人に与えていた根源的なイメージを引っ張り出そうとしているのが特徴です。文字がまだ広まらない古代、多くの人たちが言葉の響きから意味やイメージを感じ取っていたはずです。サ行の特に「サ」や「シ」の音に、再生・新生をイメージさせる音色を聴いていたのだと思います。 
 「サ(ら)」と「シ(な)」からなる地名「さらしな」は月が美しいから誕生したのか、先に在って月を象徴する地名として知れわたったのか。どちらか分かりませんが、のちに「月の都」と称される当地にぴったりの言葉だったことになります。
 都への格好のみやげ話
 天武天皇の中央集権国家づくりはその後、聖武天皇の国分寺の全国建立にも発展、都から多くの知識人や役人が各地に派遣されました。都より東の地域の統制は特に重視され、当地にも国道(東山道の支道)が通っていたので往来する旅人が増えたはず。その過程で当地の月の美しさと「さらしな」という地名の響きがベストマッチであることが発見され、旅人は合わせて冠着山を姨捨山に見立てたストーリーも制作。都への格好のみやげ話になり、「月が美しいさらしなの里の姨捨山」「一度行ってみたい」と評判になった可能性があります(姨捨山誕生の詳しい経緯はシリーズ3334)。
 和歌は古代、声に出して読み上げるのがふつうだったので、SARASHINAの音色を耳にしたとき、月のイメージを抱く歌人は多かったのではないでしょうか。「わが心歌」作者はわが身の老いをはかなむ、天皇の宮廷に仕えていた女性ではという説(シリーズ66)もあるので、みやげ話を聴いた貴族女性が、今より良い人生への再生・新生の願いを、さらしなに託して「わが心歌」を詠んだかもしれません。
 「わが心歌」の誕生には古代の人々がかつて抱いていた月信仰と、天皇親政国家への過程で盛んになった都と地方の人・情報の往来が、深く関係している可能性があります。

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