冠着橋讃歌

 以下は、長野県千曲市千本柳区の米沢文子さんが1974年にお書きになったエッセーです。米沢さんは昭和30年代にできた、初期の更級保育園で先生を務め、毎日、冠着橋を渡って更級地区に通っていました。そのときの体験を振り返り、五加小学校のPTA母親文庫10年記念号「文集おかあさん」に寄せた文章です。「冠着橋讃歌」と呼びたくなるような素敵な文章なので、「永縁の冠着橋」(さらしな堂発行、千曲市の戸倉図書館にあります)にも転載させてもらいました。写真は1990年に千曲川の更級地区側の堤防で米沢さんと冠着橋を撮影したものです。

米沢先生とススキsamuneiru 陽が落ちてからの三月の風は冷たい。冠着橋の上にさしかかると、それは頬に刺さるようである。髪の毛を右に左に吹きさらす。しかし、いつものように心の安まる思いであたりを見まわしながら、ゆっくりと歩く。
 冠着橋と私とのつきあいはもう何年になるのであろうか。昭和三十八年(一九六三)、私は千本柳へ嫁いできた。その五月に主人と二人で姨捨山方面へワラビ狩りに行くために通ったのが、この橋との出会いであった。そのときは単なる通りがかりの、一風変わった橋にすぎなかった。ところが、翌年四月から、私は更級保育園勤務になり、朝夕、ここを通らざるをえなくなった。

ある時は忍者のごとく
 コンクリート本橋部分は今よりも短く、取りつけ木橋もひどく痛んでいた。コンクリートといっても橋脚の部分のみで、通路は板木を敷き並べただけですき間からは川の流れがチラチラと見えた。足をすい込まれそうで非常に恐ろしい思いであった。
 昭和三十九年から四十四年までの五年間には、いろいろなことがあった。毎年の台風シーズンには、取り付け木橋の部分が流されてしまい、そのつど、難儀な思いをしたものであった。ある年は、橋脚に垂直に丸木はしごが取りつけられ、時代劇の忍者のように、のぼりおりした。またある年は、ロープにゆわえられた渡し舟を、自分で繰って渡ったりもした。別の年には、木橋の手前に浅い流れができてしまい、スラックスを膝の上までたくしあげて、靴を片手にジャブジャブと渡ったりもした。
 その時々は腹立たしい思いばかりであったが、今はなんとも懐かしいことごとである。四十三年の夏であったと思う。年老いた橋の脚が大きく傾き、ついには取り壊されてしまった。そのときは交通の不自由をかこつほかに、身内の不幸に出会ったときのような悲しみも味わった。 

霞たなびく桃畑街道
 昭和四十四年の四月から四十八年の三月までの四年間、私は橋と別れていた。その間に橋は、吊り橋の部分が全面鉄筋コンクリートに代替わりし、四十八年四月から私は、再びこの橋を行き来したのであった。川をとりまく自然は少しも変わっていなかった。
 冠着橋から見る千曲川周辺の風景が、私は好きだ。橋を渡りながら川下の方を眺めると、八幡神社の森を前景に、信越五岳の、飯縄、妙高、戸隠の三山が峰を連ねている。これらの峰々全部がくっきりと見えるのは、空気の澄んだ晴天の日だけである。
 川上に目をやると、ゆるやかに曲がった千曲川が吸い込まれるあたりに、葛尾山、鏡台山が静かに立っている。夜になると、八王子山が黒く浮かびあがり、そのふちからネオンの光が淡く漏れている。後ろを振り向くと、左手には冠着山が間近に迫っている。
 春の盛りは姨捨山のすその羽尾から、三島部落へ抜ける明治新道沿いの桃畑が見事である。霞のたなびく中の花の薄桃色と木々の芽吹きの色とが、えも言えず好ましい。何年も何年も「ああ、いいなあ」と橋の上から眺めたすえに、昨年はこの花の時期に車で桃畑の道を通ってみた。しかし、その中に入ってしまうと、けむるような春の色は遠のき、なんとも、ものたりなかった。やはりあの橋の上から眺めるのが一番良いのであろう。

 アカシアのかき揚げ
 更級保育園から小川沿いに冠着橋へ抜ける道がまたよい。三月、雪溶け水が流れ出すと、まず、はこべが萌えだし、おおいぬのふぐりが小さな青い花をつける。この花は手をふれると、椿の花のようにポトッと落ちてしまう。青い色に惹かれて小瓶に活けてみたが、あまり見ばえがしない。早春の里野に置くのが一番美しい。
 そのうちにアマナが太い葉をスッと出し、続いて、タンポポ、スミレが咲くころは、四月も半ばになっている。この道沿いに大きなの木が数本そびえていて、枝々のもえぎ色がまたすばらしい。道を横切ると、一毛作の田んぼにレンゲの花が咲き、続いてチューリップ畑が満開になり、五月には畑が眼と味覚を楽しませ、七月には水蜜桃の甘いまろやかな香りが心を酔わせてくれる。木の取りつけ橋をカタコトと下りきると、そこはまだ河原の中である。初夏、そこのアカシヤ林に白い花房がびっしりと下がる。花も地味ならさわやかな風にのって流れてくる香りもひかえめで優しい。この花をもいでかき揚げにして食卓にのせてみた。味もひそやかでさりげないものであった。

 宵待草と母のつぶやき
 アカシヤの葉が真夏の陽に白っぽくみえるころになると、河原は月見草(宵待草)が目立ってくる。上山田町の山間の部落で生まれた私は、千曲川とこの花にずっと憧れてきた。千本柳に嫁して来た当座は夕方になると千曲川へ行きたがり、主人にあきれられたものである。実家の母はこの川沿いの生まれで、自分の生育の地をいとおしんで幼い私にこの花の話をしてくれた。
 「宵待草の別の名の通り、月の出かかる宵は、花びらを包む薄い皮膜をポッポッと音をたてて破り、次々と黄色い大きな花を開いていくのだよ」と。
 この母のつぶやきがより一層、月見草への憧れを募らせたのだろうと思われる。でも残念ながら、いまだにこの花の開くさまを見たことがない。また、むりに見ようとも思わなくなった。一生、幻想的な憧れを抱き続けるのもまたいいではないだろうか。

ススキの原は透明に
 カンカンと陽の照りつける日中は、ネバリ草が生き生きとピンクの白の花を咲かせる。砂漠のような河原の砂地に咲くのに意外に可憐である。夕暮れ時、魚がピチン、ピチンと水面に跳ね上がるさまも愉快で楽しい。大雨の後、河原に出来た水たまりにまぎれこんだ小魚は哀れだ。水たまりが日に日にせばまり、ある朝、白く干上がったのは見るにしのびない。
 夏も盛りを過ぎると、急に土手ぎわのススキが眼につきだす。土手にはワレモコウが濃い紫の玉をつける。夏の後から、秋がチラッと顔を見せる季節の変わり目はなんと優しいときであろう。ススキの穂が風にうねるさまを見ていると、「とよ葦原の瑞穂の国」という言葉が生き生きとしてくる。秋風が肌に心地よい季節になると、穂は豊に広がる。そして野分けの駆けぬけた朝は、無惨にも葉の色はあせて折れ曲がっている。
 そして初霜がハラリハラリと音もなく桑の葉を落とすころ、ススキの原は茫々たる銀白色に変わる。ある年の晩秋、上徳間の土手から河原のススキの原を眺めたとき、その類のない透明な美しさに、しばらく息をひそめて見入った。鈍い暮色に包まれた千曲川の中に、その群だけが銀箔を置いたように光を放って浮かび上がっていた。
 四年ほど前から、千曲川に美しい仲間が加わった。白鷺たちである。最初、冠着橋の上流側にある中洲の柳の林をねぐらにしていた。夕方になると、柳の林は彼らで白いまだらに見えたものであった。しかし、昨年夏の洪水でこの林が流されてからは宿替えしたらしく、あまり姿を見せず寂しい。

 冷えてこわばったほおに手をあててみる。妻となり、母となって十二年間、さまざまな思いにふけりながら、この橋を行き来してきた。この時間にストーブもつけず、一室だけに電気を灯し、姉弟二人だけで待っている幼い子供たちを思い浮かべて足を早めた。