78号・心ゆくまで嘆けた「さらしな・姨捨」

 当地で松尾芭蕉が詠んだ句「俤や姨ひとりなく月の友」(俤句)は、千年以上前に当地を世に知らしめた和歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(わが心歌)の延長上にあります。一貫しているのは「嘆き」です。
 かねつとかなしいは同根
 この「嘆き」という感情表現は、日本の古典文学の基調だそうです。東京大学文学部教授の竹内整一さんの「〈かなしみ〉と日本人」(日本放送出版協会)という本に詳しい解説があり、それを自分なりに解釈すると、「わが心歌」に盛り込まれている「慰めかねつ」にその嘆きが凝縮されています。
 この「慰めかねつ」の「かねつ」という言葉は、「かなしい」という言葉と同じ根を持つそうで、「かなしい」という言葉は「…かねる」から派生し、何事かをなそうとするのだけれど力が及ばず、どうしようもなく切ないという感情を意味していたということです。現代では「かなしい」を漢字にすると、新聞では原則「悲しい」と表記されますが、かつては「哀しい」「愛しい」とも書かれ、複雑で自分の力や意志ではどうしようもできないときに感じる感情を表現する言葉でした(今でも作家があえて漢字を区別して使い、微妙な違いを表現することがあります)。
 「かねつ」「かなしい」という言葉を盛り込んだ古代から中世にかけての和歌の中で、「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」ほど、全体が嘆きの調べを持っている歌は少ないようです。
 なぜ、年老いた母親を山に捨てたのか、でもそうしないと子孫をつないでいけない事情も分かる、姨捨山の月を見ていては。いろいろ考えても、どんな事情があるにせよ、気持ちは慰めようがない…。
 この歌にある「慰める=NAGUSAMERU」という言葉と「嘆く=NAGEKU」という言葉のよく似た音の響きも関係していると思います。意味の上では「気持ちを鎮める」と「気持ちが満たされない」という反対の言葉ですが、正反対であるだけに結論が出ないため、気持ちの上では結論が出ず、嘆きの感情をさらに深いものにさせたと考えることができます。
 月がいればもう独りでは…
 ここで大事なのは、「さらしな」や「姨捨」「月」を素材に嘆きの歌を作った作者、またその歌が気に入って読んだ人たちは、だからといって深い悲しみのどん底に落ちっぱなしだったというわけではなく、癒されたということです。
 「月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ」という歌を詠んだ更級日記の作者がそうであるように、それによって心の安定を得ていたと思われます。嘆きはぼやきと違い、どうしようもない気持ちを他者に届けようとする意思が強い感情です。
 能舞台のシナリオの謡曲も、多くが嘆きの物語です。恨みを嘆きに昇華させることで、幽玄日美と言われる芸術になりました。さらしな・姨捨を詠み込めば、だれかは分からないけど、必ずだれか、しかも多数のだれかとつながれるという希望、安心感がありました。謡曲「姨捨」はその代表作です。
 日本人が伝統的に受け継いできたそうした嘆きの感情を、芭蕉もさらしなの姨姨捨山で味わい、楽しんだ可能性があります。シリーズの前回、77で記したように、姨岩の上で、亡き母や「わが心歌」、故郷の先輩偉人である能の大成者、世阿弥のことも思い出しながら、心ゆくまで嘆くことができたかもしれません。
 そこまで徹底して嘆けたのは、月があったからです。信州はちょっと歩けば川と山がある地形が特徴で、悩んだときでも癒してくれる景観がすぐ近くにありました。さらしな・姨捨の場合は、それに加えてお月さんがいたのです。
 お月さんがいればもう独りではありません。月は同伴者です。わが身を月明かりが包み込んでくれました。月影という言葉は月の光のことを言いますが、なぜ光なのに影なのか。あの周り込む明かりは矛盾するようですが影としか表現できない光です。つまり、月の明かりを浴びれば独りではありません。かなしい境遇であっても決して自分は独りではないことを確認する場が、更級・姨捨であったと思われます。
 このシリーズで芭蕉の前に当地に来訪したり、老いをめぐって嘆いた人たちをいくつか列挙してみます。
 さきほどの更級日記作者、菅原孝標女(60号)。
 南北朝時代の南朝の皇子、宗良親王「さらしな月見みてだにも我はただ都そらぞ恋しき」(75号)
 「世の塵を払ふ心は更級や姨捨山に埋ずむ黒髪」昌明(6号)。
 さらしなには来ませんでしたが、「年暮れてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな」を詠んだ源氏物語作者、紫式部(70号)。
 さらに、作家井上靖短編「姨捨」の中で描かれる「母親の嘆き」(15号)。
 嘆くと泣くも同根?
 「俤句」は母親孝行もできずに母をなくした後悔をずっと引きずっていた芭蕉だから作ることができた句である可能性があります。「更科紀行」の中に盛り込まれている全部で十余りの句の中でも難解な解釈の難しい句と言われてきましたが、「わが心歌」で表出された日本人の歴史的感情の延長上に、芭蕉が母親不孝の嘆きを「俤句」に結晶させたと考えると、この句がぐっと身近になります。
 「日本語源大辞典」(小学館)によると、「嘆く」と「泣く」は語源が同じという説も載っています。泣くという感情表現も貴重です。泣いて嘆く場があって、はじめて次のステップにつながることができます。芭蕉は当地で心ゆくまで泣き、嘆くことができたから心機一転、「奥の細道」に旅立つことができた可能性があります。
 嘆きが日本古典文学の基調であるという説を最初に教えてくださったのは、栞の故郷推進運動に取り組む馬場條さんです。馬場さんはNHKのラジオ放送で竹内整一さんのお話を聞き、その要旨を教示くださいました。竹内さんも長野県生まれだそうです。
 左の写真はNHKで昨年放送された謡曲「伯母捨」で、「わが心歌」を謡い、舞っている老女。舞手は喜多流能楽師、友枝昭世さんです。右の絵は芭蕉の来訪320年を記念して出版した「まんが松尾芭蕉の更科紀行」の一場面。当地に来訪し、姨捨山(冠着山)を見て嘆いている芭蕉です。

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