129号・さらしなの里にある「築地御所」

 「御所」と言えば、天皇が江戸時代まで住んでいた京都の「京都御所」に代表されるように、高貴な人が住む建物とその場所のことを指します。さらしなの里の羽尾地区(旧更級村)にも「築地御所」とも呼ばれたスポットがあります。扇状地の当地を流れ下る主要河川の雄沢川沿い、現在は畑になっているのですが、二十数年前までは、土塀を載せたとみられる石垣(築地)が畑の周囲をめぐらしていたというのです。当時の畑の所有者である羽尾在住の郷土史研究家、北村主計さんに覚えていること、知っていることを教えてもらいました。畑の中には直径30㌢くらいの柱を載せる礎石(下の写真)がいくつもあったそうで、これは上に屋根瓦を載せた立派な建物があった証拠です。
 宗良親王が滞在?
 その場所は明治新道と雄沢川が湾曲する間、「ついじ」という地籍名が伝わる所です。左下の写真は国土地理院が1965年に撮影した当地の航空写真で、まだ圃場整備の前なので、伝来の畑割りがよく残っており、緑色の部分が築地御所のスポットの有力候補地です。「ついじ」は漢字にすると築地で、土で塗り固め、屋根を瓦で葺いた塀のことを言います。明治時代の初めに編まれた羽尾村誌には築地御所のスケッチ(左上の写真)が載っており、そこには確かに石組の区画が記されています。石組の上部に描かれた線は雄沢川です。
 ただ、その由来の解説は「高貴な人が住んでいたとされるが、その言い伝えを失う」と記されているだけです。村誌は古老の話をもとに作られたでしょうから、江戸時代の後半には、実際どのようにこの石垣一帯が使われたのか分からなくなっていたということになります。
 となると、石垣の建設は江戸前期より古くなります。御所というと京都御所になじみがあるので、南北朝時代の南朝側の後醍醐天皇の八番目の子、宗良親王を思い浮かべてしまいます。数年の間、当地に滞在したとの説もあり、だとすると、小さくとも京都御所並みの館を作ったとしても不思議ではありません(宗良親王についてはシリーズ75、128など参照)。
 畑の石垣と聞くと、段差をつけて上の土が落ちないように土留めする姿を思い浮かべるかもしれませんが、この「築地御所」の石垣は違います。田畑の畔にあたる部分だけ石組を施し、凸状に石を組み上げてあったそうです。この上に屋根瓦の載る土塀があったのはまず確かだと思います。
 北村さんは幼少時、石垣を見ながら畑の仕事を手伝っていました。また昔の写真を探してもらったところ、30年近く前、お子さんが築地御所と呼ばれた畑で遊んでいる様子を撮った写真にその石垣が映っていました。その写真が中央最上部です。二人のお子さんの後方、左右に石組が走っています。黄土色っぽく見えるのは枯れ草のせいだと思われます。後ろの山は千曲川対岸の五里ケ峯など。石組の向こう側は一段低くなった畑でした。
 蚕を育てるための桑からりんご畑に代わる時代、北村さんも祖父吉堯さん、父章夫さんらと一緒に苗木を植えるために畑を掘る手伝いをしたのですが、そのとき、太い木の柱を載せるために削って窪みを設けたと考えられる礎石がいくつも出てきました。畑仕事をするには石組も礎石もじゃまだったため、業者に頼んで大半を撤去し、礎石は業者が持って帰ったそうです。一つだけを記念として畑の隅っこに置いてあったのを、後日、北村家の庭に運びました。それが上の写真です。
 雄沢川の河床や川沿いの畑には死者を供養する墓標の五輪塔の部分がたくさん転がっており、ワンセットだけ家に持ち帰り組み立てました。それが右の写真です。五輪塔をはじめ地中から出た石は雄沢川によく投げ込まれました。ほぼすべてが大水のときに流れ下り、今は下流の千曲川の河床に沈んでいるのではと北村さんは推測します。
 現在は新しい農道建設と集落排水事業による換地で土地の所有者は別の人に移っていますが、今も礎石になるような大きな石が掘ると出てくるそうです。堂城山に上ると、明治時代までは石組が全部見えたという話が残っています。その姿が村誌に刻印された可能性があります。
 風情に富んだスポット
 さて、明治初期にはもう由来が分からなくなった築地御所。時代は相当さかのぼれるのは確実です。先に宗良親王と書きましたが、必ずしも彼の館のためだけの石垣ではなく、宗良親王の後の時代ですが、戦国時代に当地を治めたとの説もある羽尾入道などの豪族の館だった可能性もあります。土塀が載った石垣は、住む人の相当な高貴さを背景にして作られたのは間違いありません(なお羽尾入道と宗良親王が滞在した場所としては現在の明徳寺の敷地という説もありますが、いずれも期間限定の滞在なので、両方に住んだとしてもおかしくはないと思います)。
 雄沢川沿いにつくられたのも興味深いです。川沿いなので大雨が降れば危険ですが、掘り割りと考えれば敵の侵入を防げます。また、すぐ下流には「申楽」という地籍名の畑があります。申楽は平安時代の芸能で、こっけいな物まねや言葉芸を意味する言葉です。都から信濃の国を通り日本海側に通じる当時の国道、東山道の支道として雄沢川沿いも使われていた可能性があるので、「築地御所」一帯も人と情報が交差する一つの拠点だったかもしれません。
 最後に冠着山との関係です。ここからの眺めはとても良かったと思います。背景には堂城山、前方には千曲川と鏡台山、雄沢のせせらぎ、戦乱の時代の中世にありながらも文化を楽しんだ都人がこのスポットに身を浸せば、いっときは戦いを忘れられたかもしれません。

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