71号・都人が立ち寄り、みやげ話に花?

 菅原孝標女が京の都で生きた平安時代、さらしなの里(旧更級村)はどんなところだったのか。さらしなの里歴史資料館の学芸員、翠川泰弘さんのお話などから、イメージを膨らませてみました。
 資料館のある一帯の地区は、掘れば縄文時代以降の遺物がたくさん見つかる大遺跡地帯で、円光房地籍からは平安時代初期の、掘っ立て柱でつくった高床式の建物と、地面を少し掘り下げた竪穴式住居の跡(遺構)がいくつも出土しています。
 平安時代の初期は、西暦800年代。孝標女が生きた中期より200年前のことですが、初期の遺構が見つかったところあたりに、孝標女の時代も、現代人が家が古くなれば建て直すように、人が代々暮らしていても不思議ではありません。
 シリーズ69で触れたように、平安の前、奈良時代の信濃国府が屋代にあったとすると、当地は京の都とを結ぶルート上にあったことは確実です。国府の下には「郡」があり、その下には「里」がありました。命令を住民にまで徹底するための行政機構です。
 当時、命令は文字を墨書きした木簡などで通達されていました。当地には広く掘れば平安時代の遺構が数百見つかると考えられるので、当地は一つの「里」をなし、千曲川に近く冠着山を仰ぎ見ることができる円光房地籍に役所的な施設があったかもしれません。高床式の建物はもともと稲倉として発達したものですが、古墳時代以降、支配層の建物として使われるようになったので、ここに役人がいたかもしれません。
 当地はまた、日本海側の越後、陸奥(現在の新潟県から青森県)に勢力を持っていた蝦夷を配下に治めていくための軍事ルートでもあったので、里の外部の人がたくさん往来していたことが考えられます。屋代の国府から冠着山越えをして都に帰る人は当地に立ち寄り、周辺の山並みの中でも威容を呈する冠着山を前にして、こんな会話をしていたかもしれません。
 「あの山はなんて言うですか?」
 「おらほでは冠着と呼んでいます」
 「そうですか。でもおたくの里には建部大垣という親孝行者もいたそうだし、姨捨山って呼んだらどうですか。そう、それがいい。これは良い都へのみやげ話になる」
 建部大垣とは奈良時代の日本の国史を記した「続日本紀」に登場する更級郡在住の人で、親孝行なので税を朝廷が免除したと紹介されています。当時、インドから伝わっていた仏教説話にある棄老伝説の中でも、親孝行をすることの大切さが説かれているので、冠着山とそのふもとの孝行者のことが話題になっていたかもしれません。
 加えて当地に現れる月は千曲川に映えて独特の美しさがあります。山をいくつも越えてきた人は余計、感じ入ったでしょう。
 そんな話題の断片がいつの間にか統合されて、当地を全国に知らしめた古今和歌集収載の歌「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」が作られた可能性があります。(詳しくはシリーズ60をご覧ください)。
 冠着山の尾根沿いを下った羽尾地区の扇平地籍から平安時代末期とみられる密教の法具が見つかっています。扇平はなんらかの寺院があったと考えられ、冠着山との絡みで当地が特別な宗教的スポットとして選ばれた可能性があるのです。
 孝標女が生きた時代は、日本海側の蝦夷対策ルートの中継地として人が当地に立ち寄ったころと、仏教が全国的に盛んになり、扇平が宗教的拠点に選ばれたころとの間にあたります。夫が信濃守として赴任したころ、国府は松本に移転していましたが、これは日本海側の蝦夷対策がひとまず終わり、蝦夷の最大勢力であった今の東北地方への拠点としては内陸交通の要衝である松本がふわさしかったからである可能性があります。
 写真は、さらしなの里歴史資料館の下に眠る古墳時代から奈良時代にかけての遺構です。戸倉町教育委員会発行の「三島平遺跡Ⅱ」からお借りしました。

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