更旅229号・伊達政宗が詠んださらしなの歌

更旅・伊達政宗のさらしなの歌samuneiru

  戦国から江戸初期を生きた東北地方の名将、伊達政宗(1567―1636年)にも「さらしな」を詠んだ和歌があることが分かりました。その歌は「曇るとも照るとも同じ秋の夜の其の名は四方にさらしなの月」。曇っていても晴れていてもさらしなの月はすばらしい、それくらい全国に知られた名月であるということを詠んだ歌だと思います。
 この歌の〝発見〟に至る最初のきっかけは、2012年の読売新聞の記事(8月19日付)。政宗が亡くなる直前の辞世の歌が月にまつわるものであることが、政宗の領地であった松島(宮城県の松島湾、日本三景の一つ)の夜空に浮かぶ月の写真とともに紹介されていました。辞世の歌は「曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く」です。
 いくたびもの合戦を経て仙台藩民の暮らしを豊かにする施策を一通り打ち、藩主として十分な働きをしたにもかかわらず、亡くなる直前まで「世の一寸先は闇、月の光で照らし進んで行くのだ」と戦国の只中を生き抜いた武将ならではの思いを感じます。
 読売新聞の記事は政宗の歌には月にちなんだものが多いとも記していたので調べました。その過程で伊達家末裔の一門の当主、伊達宗弘さんが、歌人としての政宗にスポットを当てた「武将歌人、伊達政宗」(ぎょうせい)をお書きになっているのを知り購入したところ、その中に冒頭のさらしなの歌があったのです。
 本によると、さらしなの歌は政宗が父輝宗(てるむね)の菩提寺として建立した覚範寺(かくはんじ、仙台市青葉区)で嘉永2年(1625)、「名所月」をテーマに詠みました。辞世の歌の約10年前、58歳ごろです。
 この歌の読み解き方は本の中では詳しくは触れられていませんが、詠まれたのが戦国の世を終わりに導いた天下人、豊臣秀吉が亡くなった(1598年)後だったことから想像をふくらませました。
 政宗は秀吉と親交があり、秀吉が築いた伏見城下(京都市伏見区、現存せず)に藩の屋敷を設けていました。シリーズ49で紹介したように秀吉は伏見城下に見渡せた広大な「巨椋池(おぐらいけ)」にかかる月の美しさを「さらしな」や「松島」の月にも負けないと自慢した歌(さらしなや雄島の月もよそならんただ伏見江の秋の夜の月)を詠んでいます。秀吉は伏見城にやってきた政宗にこの歌を披露したのでは…政宗はそれをきっかけにさらしなの月の天下での評判を身をもって感じたのでは…。
 確かなことは分かりません。ただ、政宗は特に愛した松島の月を見ながら、さらしなの月を思い描くことがあったのは間違いないように思います。

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